第20話:最強の翻訳
領主館の正面玄関は、今や一つの巨大な舞台と化していた。
階段の上に立つわたくしとセドリック様。そして階段の下、泥を跳ね上げた白馬の上で、絶望に顔を歪めるエリオット王子。
庭園を取り囲む騎士たちや館の使用人、そして武器の代わりにフライパンや麺棒を握りしめた四天王たちまでもが、固唾を呑んでこの不合理な対峙を見守っている。
「……信じられない。信じられないよ、リリアーヌ」
エリオット王子は、まるで愛する者に裏切られた悲劇の主人公のような顔で、絞り出すように言った。
「君が、あんなに美しく、厳格に自分を律していた君が……。こんな、野蛮な男の隣で、下卑た料理(※注:四天王の魂の逸品である)を頬張り、あろうことか満足しているだなんて。……君は、脅されているんだろう? この男に、何か弱みを握られているんだろう!? そうでなければ、君が僕の差し出す『正しい愛』を拒むはずがない!」
王子の声は、どこまでも透き通り、そしてどこまでも独りよがりだった。
わたくしは、呆れを通り越して、深い溜息を吐いた。
ああ、この人は。あの日、わたくしを追放したあの日から、一歩も、一ミリも変わっていない。自分の見たいわたくしだけを見つめ、わたくしの言葉を自分の都合の良いように書き換えて、満足している。
「……殿下。何度言えばお分かりになりますの? わたくしは今、幸せだと言っているのですわ。あなたが『監禁』と呼ぶこの場所は、わたくしにとって、人生で初めて『お腹いっぱい』を許してくれた、唯一の聖域なんですのよ!」
「嘘だっ! 君はいつもそうやって、自分に厳しい役割を課していた! 今だって、僕を遠ざけるために、わざと自分を汚すような嘘を……!」
「……もう、限界ですわ。話になりませんことよ」
リリアーヌは、目の前が暗くなるような感覚を覚えた。言葉が通じない。同じ言語を話しているはずなのに、彼との間には、どんな翻訳魔法でも埋められない深淵が横たわっていた。
その時だった。
わたくしの隣で、ずっと沈黙を守っていたセドリック様が、静かに一歩前へ踏み出した。
彼は眼鏡の縁を人差し指でクイと押し上げ、凍てつくような、しかしどこか憐れみさえ含んだ瞳で王子を見下ろした。
「……王子。君の脳内モデルは、あまりに旧式で欠陥が多すぎるようだ。……合理的判断を下すために必要な『変数の読み取り』が、一ミリもできていない」
「……何だと? 隣国の、不気味な領主風情が!」
「君は、彼女の『殿下の顔を見るだけで頭痛がしますわ』という言葉を、殺意の表れだと定義していたね。……だが、私の分析は違う。当時の彼女の脈拍、体温の上昇、そして瞳孔の開き具合から推測される真実は……『君への好意が自身の処理能力を超えたため、脳が過負荷を起こしていた』という、極めて不条理で健気な生体反応だ」
「……は、……はぁっ!?」
リリアーヌは、隣で淡々と語られる「自分の過去の醜態」の解析に、顔が爆発するほど熱くなるのを感じた。
「な、……何を、何を仰っていますの、セドリック様! やめて、やめてくださいませっ!」
「静かに。……今は検証中だ」
セドリック様は、わたくしの抗議を片手で制し、さらに容赦なく言葉を続けた。
「そして、今。君が『監禁による悲鳴』だと断じている彼女の拒絶……『もう顔も見たくない、一生ここで飯を食う』という言葉。……これに嘘は一切含まれていない。……現在の彼女の肌の艶、胃腸の活発な動き、そして何より、私の隣にいる時にだけ見せる、あの隙だらけの無防備な表情。……これらを統合すれば、答えは一つしかない」
セドリック様は、王子の目を射抜くようにして、断言した。
「彼女は、君の隣にいた時よりも、今、この瞬間の方が数百倍、幸福を感じている。……彼女にとって、君の差し出す『マカロン』はただの虚飾だが、私の館で食べる『おにぎり』は、彼女の魂を構成する真の血肉なのだ。……王子。君が彼女に与えていたのは愛ではなく、磨き上げられた『空腹』という名の檻だったのだよ」
静寂が、庭園を支配した。
四天王たちが「おお……」と感嘆の声を上げ、騎士たちは動揺して視線を泳がせる。
エリオット王子は、馬の上で激しく打ち震えていた。
セドリック様の言葉は、彼がこれまで信じてきた「リリアーヌ救出」という物語を、根底から、論理の力で粉砕してしまったのだ。
「……嘘だ。……嘘だと言ってくれ、リリアーヌ。……君は、僕を、僕のことを……」
リリアーヌは、震える声で、しかしはっきりと答えた。
「……殿下。……セドリック様の仰る通りですわ。……わたくし、あなたの隣で、完璧な王妃になろうと必死でした。でも、そのために、わたくしは自分を殺して、胃袋を殺して、心まで空っぽにしていたのですわ。……今のわたくしは、不器用で、わがままで、食いしん坊な……ただの『リリアーヌ』ですの。そして、そのわたくしを『正解』だと言ってくれたのは……セドリック様だけなんですのよ」
リリアーヌは、自分でも気づかないうちに、セドリック様の大きな手のひらをぎゅっと握りしめていた。
彼の指先は、いつも通り冷ややかだったが、その奥に潜む確かな「重み」が、今のわたくしを支えてくれていた。
「……ああ、……あああ……っ!」
王子は、天を仰いで絶叫した。
彼にとって、リリアーヌは「自分を飾るための、美しく寡黙な宝石」でなければならなかった。
目の前で、不格好なおにぎりを頬張り、無愛想な領主と手を繋ぐ彼女の姿は、彼がどれだけ手を伸ばしても、二度と届かない銀河の彼方へと去ってしまったのだ。
「……分かった。……分かったよ、リリアーヌ。……君が、……君が、僕の知らないところで、そんなに……醜くも幸せそうに笑うなんて……。……僕には、君の言葉が、一文字も理解できていなかったんだね……」
王子は、崩れ落ちるように馬の首に縋り付いた。
その背中には、もはや「正義の騎士」の輝きはなく、ただ、自分の愛の形を間違えた、愚かな男の哀愁だけが漂っていた。
「……退却だ。……全員、国境まで退け。……リリアーヌは、もう……我が国の令嬢ではない」
王子の、力ない命令。
騎士たちは、安堵と困惑の入り混じった表情で、次々と馬を返していった。
白百合の旗が遠ざかり、蹄の音が消えていく。
嵐は、去った。
リリアーヌは、力が抜けたようにその場にへたり込みそうになった。だが、それをセドリック様の強い腕が支えた。
「……終わったな。不合理な計算違いを正すのに、随分と時間を浪費してしまった」
「……セドリック様。……あなた、あんな恥ずかしいことまで言わなくてもよろしくてよ」
「事実を述べたまでだ。……それより、リリー」
セドリック様は、わたくしの顔を覗き込み、眼鏡の奥の瞳を僅かに和らげた。
「……毒見を待たせすぎた。……冷める前に、あの厚切りフレンチトーストを片付けよう。……お代わりが必要なら、既にザックスが五人前ほど準備しているようだが」
「……ふ、ふん! 当然ですわ! わたくし、今日はいつにも増して、お腹が空いていますもの!」
リリアーヌは、真っ赤な顔で強がりながら、彼の手を引いて館の中へと歩き出した。
背後では、四天王たちが「女神の勝利だ!」と歓声を上げ、祭りのような熱気が再び街へと広がっていく。
母国の令嬢としてのわたくしは、今日、死んだ。
だが、隣国で「グルメの女神」として生きるわたくしの物語は、まだ始まったばかりなのだ。




