第19話:救出者の絶望と、女神の満腹
領主館の重厚な正門が、地響きを立てて左右に開かれた。
跳ね上がる土埃の向こう側から現れたのは、かつてわたくしがその隣に立つことを何よりも夢見ていた、眩いばかりの白馬に跨る金髪の王子――エリオット・フォン・ベルシュタインその人であった。
彼はまるで神話の英雄のように、輝く銀の鎧を纏い、翻るマントを夕日に染めながら、悲痛な叫びを上げた。
「――リリアーヌ! 今助けるよ! 君をこの地獄のような監禁生活から、僕の愛で救い出しに来たんだ!」
その声は、相変わらず無駄に良く通り、誠実さと善意に満ち満ちていた。
庭園に控えていた館の衛兵たちや、手にカツサンドを握りしめたままの四天王たちが、一斉に彼に注目する。だが、王子の視線はまっすぐに、館の正面玄関の階段を見上げていた。
そこには、わたくし、リリアーヌ・ド・グランヴェルが立っていた。
エリオット王子の瞳には、おそらく「不当な虐待により痩せ細り、涙を流しながら助けを求める悲劇の婚約者」の幻影が見えているのだろう。だが、現実のわたくしはといえば、先ほど厨房でトトが捌いたばかりの「特製・黄金海鮮丼」の最後の一口――脂の乗った大トロの部分――を、まさに至福の表情で飲み込んだ直後だった。
(……なによ、殿下。人の最高に幸せな余韻を、そんな耳障りな大声で台無しにするなんて)
リリアーヌは、そっと口元を最高級の絹のハンカチで拭った。
隣国の、白米と良質な油、そして新鮮な海の幸によって、わたくしの肌はかつてないほどツヤツヤと輝き、頬には健康的な薔薇色の赤みが差している。王宮にいた頃の、コルセットで胃を締め付け、小指の先ほどの菓子で一日を凌いでいた頃の、あの青白く尖った美しさなど、どこにも残っていない。
「……あら。どちらの騒がしいお客様かと思えば。エリオット殿下。人の昼食時に軍勢を引き連れて乗り込んでくるなんて、マナー違反も甚だしいですわよ」
リリアーヌが、階段の上から優雅に――そして呆れ果てた声で告げると、エリオット王子は衝撃を受けたように馬上で身を乗り出した。
「リリアーヌ……! ああ、君はなんて高潔なんだ。そんなに顔を膨らませて(※注:単に少しふっくらしただけである)、言葉を荒らげてまで、僕を遠ざけようとするなんて。……毒を盛られて、まともに思考することもできないほど、衰弱させられているんだね……!」
「話を聞きなさいな、このバカ王子っ!!」
リリアーヌの怒声が庭園に響き渡った。
かつてのわたくしなら、ここで「殿下の馬鹿! もう大嫌いですわ!」と叫びながら、心の中で(助けて!)と願っていたかもしれない。だが、今のわたくしは違う。
「洗脳も監禁も、毒物もありませんわ! わたくしが今飲んでいるのは、セドリック様が用意してくださった極上の茶葉と、ザックスが心を込めて炊き上げたお米ですのよ! 殿下、あなたの言う『救出』という名の不合理が、今のわたくしにとってどれほどの迷惑か、理解できていらっしゃいますの!?」
「……理解しているとも。君は、僕が罪悪感を抱かないように、わざと『ここで幸せだ』という嘘を吐いているんだろう? そんな無理をして笑顔を作らなくていいんだ(※注:本物の爆笑である)。さあ、今すぐ我が国へ帰り、お上品なマカロンを食べよう! あんな野蛮な、生肉の塊(刺身)なんて忘れさせるような、甘いお菓子が君を待っているよ!」
エリオット王子が、うっとりとした表情で手を差し出す。
だが、リリアーヌはその手を見つめ、心の底から「冷めた」感覚を覚えた。
マカロン。
一口で消え、お腹に何の満足感も与えない、虚飾の象徴。
今のわたくしの胃袋が求めているのは、厚さ五センチのトーストであり、溢れんばかりの肉汁であり、何杯でもお代わりができる白米なのだ。
「……マカロン? ふん、そんなもの、今のわたくしには物足りなくてよ! 殿下、あなたは相変わらずですわね。わたくしの言葉を、一文字も正しく受け取ろうとしない。……わたくしが今、この場所を護るために戦っているのは、あなたの独りよがりな『愛』から解放されたからなんですのよ!」
「リリアーヌ……。君は、そこまで深く病んで……。領主め、我が愛しきリリアーヌに、何を吹き込んだ!」
エリオットが、背後に控えるセドリックに向けて、憎悪に満ちた視線を向けた。
その時、これまで静観していたセドリックが、静かに一歩前へ出た。彼はリリアーヌを庇うように階段の中ほどに立ち、眼鏡を指先で直しながら、冷徹なまでの冷静さで王子を見据えた。
「……王子。残念ながら、あなたの持ってきた情報は、あまりに統計的な不備が多いようですな」
「何だと、隣国の冷血領主め!」
「彼女は現在、我が館で『毒見役』という極めて重要なポストを担っており、その業務による報酬として、領地内における無制限の『お代わり権』を付与されている。……君の言うマカロン一粒の熱量では、彼女の午後のパフォーマンスを維持することさえ不可能ですな。……合理的判断を下すなら、君は今すぐその白馬を回し、自分の無知を恥じながら退散すべきだ」
「……リリー。君は、こんな男に……こんな男に、『お代わり』という名の鎖で繋がれているのか……!?」
王子の絶望は、もはや救いようがないほどにズレていた。
リリアーヌは、自分の隣で淡々と、しかし確実に自分を護ってくれているセドリックの横顔を盗み見た。
(……セドリック様。……毒見、忘れないでくださいませね。……今日のデザートの『厚切りフレンチトースト』、あなたに半分、分けて差し上げてもよろしくてよ)
リリアーヌが、セドリックの袖を僅かに掴みながら、極めて不器用な、しかし確かな信頼を込めて囁く。
セドリックは、その言葉を聞き、僅かに――本当に僅かにだけ、その厳しい口元を和らげた。
「……ああ。……不合理な横槍が入ったが、デザートの温度管理は最優先事項だ。……王子。聞こえたかね? 彼女は今、君の感傷に付き合うよりも、蜂蜜が染み込んだパンを優先したいと仰っている。……これが、彼女の『本音』だ」
「な、……そんな、まさか……。僕の愛よりも、パン、だと……? リリアーヌが、あんなにお淑やかだったリリアーヌが、食欲の化身のような顔をして……っ!!」
エリオット王子は、まるで世界が崩壊したかのような顔で絶叫した。
彼にとって、リリアーヌは「自分に仕え、自分を律し、自分のために美しくあるべき道具」でしかなかったのだ。
お腹いっぱい食べて、笑って、自分を必要としない彼女の姿は、彼にとっての最大の「悪夢」であった。
リリアーヌは、階段の下で狼狽える王子を、冷ややかな、しかしどこか晴れやかな目で見下ろした。
「殿下。……お帰りなさいませ。わたくし、今の人生が、人生で一番……『満足』しておりますの」
その言葉は、もはやツンデレの翻訳など必要ない、純粋な真実だった。
だが、王子は、崩れ落ちるように馬の背でうなだれた。
「……嘘だ。……嘘に決まっている……。リリアーヌ、君は、僕が、僕が助けに来るのを……っ」
嵐の主役は、再会の瞬間に、既に敗北していた。
リリアーヌの胃袋と心が選んだのは、高貴な名前を持つ王子ではなく、不格好なおにぎりを「正解」と呼んでくれる、不器用な隣国の領主だった。




