第18話:嵐の前の大盛り決起集会
地平線を震わせるような重厚な角笛の音が、一夜明けても耳の奥にこびりついて離れなかった。
領主館の窓から見える景色は、昨日までと一変している。北の街道沿いには、エリオット王子の本隊が掲げる白百合の旗が、冷たい風に煽られて不気味にうごめいていた。数千の兵たちが立てる喧騒は、距離があっても微かな地鳴りとなって足元に伝わってくる。
館の中は、まるで通夜のような静寂に包まれていた。
メイドたちは震える手で窓の戸締りを確認し、衛兵たちは青白い顔で剣を握り直している。誰もが、これから訪れるであろう「王子の正義」という名の嵐に、怯えきっていた。
(……ふん。皆様、情けない顔をして。わたくしがこの館に来たときよりも、ずっと不健康な顔色ですわね!)
リリアーヌ・ド・グランヴェルは、そんな重苦しい空気を切り裂くように、勝手口の扉を力任せに開け放った。
そこには、朝露に濡れた石畳の上で、同じように深刻な面持ちをした四人の男女が立っていた。
定食屋のザックス、肉焼き屋のバネッサ、パン屋のルーク、そして魚屋のトト。城下町の「グルメ四天王」たちが、それぞれの得物――包丁や天秤棒を携え、館の窮地を救うべく集結していた。
「女神様……! 街の方じゃあ、王子が攻めてくるってんで大騒ぎだ。俺たちにできることがあれば、なんでも言ってくれ!」
ザックスが、絞り出すような声で言った。
リリアーヌは、彼らの不安げな瞳を一人ひとり、公爵令嬢としての気品を込めた鋭い視線で見つめ返した。
「皆様、何をそんなに震えていらっしゃいますの! お腹が空いては、震える力さえ湧きませんわよ! ザックス、バネッサ、ルーク、トト! あなたたちに命じますわ。今すぐこの厨房を占拠し、館の者たち、そして街の皆が、恐怖を忘れてしまうほどの『おもてなしの弾薬』を用意なさい!」
「弾薬……だと?」
ルークが眉を寄せた。リリアーヌは、厨房の大きな調理台を叩いて、高らかに宣言した。
「そうですわ! エリオット王子は、わたくしを『不幸な被害者』として救いに来ると仰っています。……なんて失礼なことかしら! わたくしは今、人生で一番、お米を美味しく食べておりますのよ! それを邪魔されることこそが、わたくしにとっての地獄なんですわ!」
リリアーヌの言葉に、四天王たちの表情に驚きが走る。
「皆様、美味しいものを食べることは、生きる権利ですわ! あの方に、私たちの『満足』を邪魔させたりいたしませんことよ! さあ、取り掛かりなさい! 王子の軍勢がこの門を叩く頃、この街がどれほど幸せな香りに包まれているか、見せつけてあげるのですわ!」
リリアーヌの、あまりに食欲に忠実で、しかし一切の迷いがない「女神」の命令に、四天王たちの腹に火がついた。
「よっしゃあ! 女神様の仰る通りだ! 空腹のまま泣き寝入りなんて、俺たちの流儀じゃねえ!」
「バネッサ、肉を出すよ! ザックス、米を炊きな! ルーク、あんたは最高のパンを焼け!」
「俺も、港から最高に脂の乗った干物を持ってきたぜ! 女神様、見ててくれ!」
厨房は、一瞬にして戦場と化した。
ザックスが巨大な釜で次々と米を炊き上げ、バネッサが鉄板の上で肉を爆ぜさせる。ルークは小麦の香ばしい匂いを撒き散らし、トトは魚を捌いてはその身を黄金色に焼き上げていく。
リリアーヌは、その中心で指揮を執った。
「ルークとバネッサ、その厚切りカツをパンで挟みなさいな! 持ち運びやすく、一口で満足できるように! ザックス、佃煮を混ぜ込んだ握り飯を百……いえ、五百個ですわよ! トト、魚の塩気を強めにしなさい、白米が進むように!」
リリアーヌの指示は、的確かつ過酷だった。
だが、その香りが厨房から館全体へと広がるにつれ、怯えていた使用人たちの鼻が動き始めた。
醤油の焼ける香り、肉の脂が滴る音、炊き立ての米の甘い蒸気。
それらは、死の恐怖よりも確実に、彼らの生存本能を揺さぶっていった。
リリアーヌは、出来上がったばかりの「厚切りカツサンド」を一つ手に取り、震えている若いメイドに突き出した。
「さあ、食べなさいな。食べれば、自分が何をすべきか、胃袋が教えてくれますわよ」
メイドは恐る恐る口にし、その瞬間、涙を流しながら「……美味しい。……美味しいです、お嬢様!」と叫んだ。
恐怖は、満腹感によって上書きされる。
館の空気は、数時間前までの絶望から、奇妙な熱気を帯びた団結へと変わっていった。
昼過ぎ。
厨房に、冷静な足取りでセドリックが現れた。
彼は調理台の上にそびえ立つ「握り飯の山」と「カツサンドの城」、そして額に汗を浮かべながら采配を振るうリリアーヌを見つめた。
「……リリー。館の防衛備蓄が、凄まじい勢いで消費されているようだが。……これは一体、何の戦略だ?」
「戦略? ふん、決まってますわ。胃袋による鉄壁の防衛線ですわよ、セドリック様! 王子が来ても、誰もひもじい思いをさせない。……それが、この館のメイドとしてのわたくしの矜持ですわ!」
リリアーヌは、自分が握ったばかりの、少し形の歪な「決戦おにぎり」をセドリックの鼻先に突き出した。
「あなたも食べなさいな。……毒見は、わたくしが済ませておきましたわ。……これでも食べて、王子の顔を百発くらい殴り倒すための『燃料』になさいな!」
セドリックは、眼鏡を指先で直し、リリアーヌの熱っぽい瞳を見つめた。
彼は黙って、そのおにぎりを受け取った。
「……不合理なまでの情熱だ。……栄養学的には過剰な熱量だが。……私の士気を向上させる因子としては、これ以上の最適解はなさそうだな」
セドリックは、大衆の前であることも構わず、そのおにぎりを一口頬張った。
「……悪くない。……いや。……勇気が湧いてくる味だ」
その言葉に、厨房にいた全員が歓声を上げた。
領主が認めた味。女神が導く満足感。
館は今、一つの巨大な「食の要塞」となっていた。
夕闇が迫る頃。
館の正門のすぐ外に、ついに白百合の旗を掲げたエリオット王子の本隊が整列した。
王子は、門の隙間から漏れ出してくる、あろうことか「美味そうな肉と米の匂い」に、激しく狼狽していた。
「……何だ、この匂いは? まさか……まさかリリアーヌ、君は、最後のご馳走として自分を煮込まれているのか!?(※極度の勘違い) 待っていてくれ! 今、この僕がその大釜から救い出してあげるからね!」
門を隔てて、最高に幸せな満腹の女神と、最高に的外れな救出劇。
リリアーヌは、門の向こう側をキッと睨みつけた。
彼女の胃袋には、ザックスのおにぎりが、バネッサの肉が、ルークのパンが、トトの魚が、そしてセドリックへの信頼が詰まっていた。
「来なさい、エリオット王子! ……わたくしのこの『満足』を、あなたの安っぽい愛で汚させたりいたしませんことよ!」
嵐の前の、静かだが力強い決起。
物語はついに、最大のクライマックスへと突入しようとしていた。




