第17話:匿名希望の茶葉と、不器用な約束
賑やかな庭園から少し離れたテラスには、夜の帳が静かに降り立ち始めていた。
遠くからは四天王たちの豪快な笑い声や、街の人々が奏でる陽気な音楽が風に乗って聞こえてくるが、リリアーヌ・ド・グランヴェルの耳には、それさえもどこか遠い世界の出来事のように響いていた。
彼女の手の中には、一点の曇りもない白磁のティーポットが握られている。
その中には、先ほどセドリックが「倉庫の隅にあった処分品」だと言い張って差し出した、あの茶葉が踊っていた。
蓋の隙間から立ち上る香りは、リリアーヌが母国の公爵令嬢として、王宮の最上階で愛飲していた「天上の雫」そのものの香りだった。
(……処分品だなんて。わたくしをどこまで世間知らずだと思っていまして?)
リリアーヌは、温かな陶器の感触を確かめるように指先を這わせた。
この茶葉は、母国の特定の山脈で、一年のうちわずか三日間だけ収穫される極上品だ。隣国であるこの地に、しかも「倉庫の隅」に、偶然紛れ込むなどという不合理、天が地になってもあり得ない。
あの方が、わたくしのために、どれほどの伝手を使い、どれほどの対価を支払ってこれを用意したのか。
考えれば考えるほど、胸の奥が熱くなり、同時に言いようのない焦燥感がこみ上げてくる。あの方はいつだってそうだ。合理的、効率的、不合理の排除。そんな言葉を盾にしながら、その実、わたくしのために誰よりも「不合理」な手間をかけ続けている。
リリアーヌは、テラスの欄干に身を乗り出し、館の警備状況を確認していたセドリックの背中を見つけた。
彼は夜風に髪をなびかせ、手元の魔導書板に鋭い視線を注いでいる。その姿は、一国の領主としての重責を背負った、近寄りがたいほど冷徹な男のそれだった。
「……セドリック様。お仕事中、失礼いたしますわ」
リリアーヌは、いつものツンとした態度を幾分和らげ、丁寧に淹れたお茶を盆に乗せて近づいた。
セドリックは視線だけを動かし、リリアーヌが置いたカップを一瞥した。
「……リリーか。茶会はまだ続いているはずだが。主催者が持ち場を離れるのは、運営コスト上の損失ではないか?」
「うるさいわね。わたくし、最高の淹れ頃を逃したくないだけですわ。……さあ、冷めないうちに召し上がりなさいな。あなたの言う『処分品』が、どれほど毒々しい味か確かめてあげますから」
セドリックは、僅かに眉を動かすと、無言でカップを手に取った。
琥珀色の液体を一口含み、その喉が上下するのを、リリアーヌは固唾を呑んで見守った。
「……不備はないな。抽出時間は適切だ。茶葉の酸化も進んでいない。……処分品にしては、上出来な部類だ」
「……まだ仰るのね、そんな白々しい嘘を」
リリアーヌは、セドリックの隣に並び、手すりに肘を突いた。
目の前には、美しく整備された領主館の庭園が広がっている。しかし、そのさらに先。北の空の下には、母国のエリオット王子の軍勢が焚く、不気味な篝火が夜の闇を赤く染めていた。
「セドリック様。……これ、母国の王族しか飲めない、一年に数ポンドしか流通しない希少品ですわよ。……輸入ルートの計算違いで紛れ込んでいたなんて、算術が得意なあなたの口から出る言い訳としては、あまりに三流ではありませんこと?」
リリアーヌが真っ直ぐに彼を射抜くと、セドリックは初めて視線を泳がせた。
彼は眼鏡の縁を不自然に触り、夜空を見上げながら、早口で答えた。
「……物流には常に、予測不能なノイズが混じるものだ。偶然が重なれば、不合理な事象も統計学的に発生し得る。……それ以上の追及は、時間の無駄だ」
「……ふん。相変わらず、可愛げのない男ですこと。……けれど、わたくし、あなたのそういうところが嫌いじゃありませんわよ」
さらりと言ってのけた自分の言葉に、リリアーヌ自身が一番驚いた。
顔が熱くなる。
慌てて、お茶請けとして持ってきた小皿を彼の前に差し出した。
そこには、ルークの厚切りパンに、バネッサの特製クリームと、ザックスが煮込んだ蜂蜜果実を乗せた、四天王の英知が詰まった試作の甘味が載っていた。
「……これ、毒見してくださる? 明日、街の方々に出そうと思っている新作なんですの。……あなたが合格を出さない限り、わたくし、不安で眠れませんわ」
「……毒見、か。……よろしい。成分の安定性を確認してやろう」
セドリックは、リリアーヌが差し出したフォークを、その大きな手で受け取った。
彼がそれを一口食べた瞬間、その無機質だった表情が、わずかに、本当にわずかにだけ綻んだのをリリアーヌは見逃さなかった。
「……セドリック様。……わたくしを、連れ戻させたりなさいませんわよね?」
ふいに、声が震えた。
背後に迫る王子の「善意」という名の恐怖。
あの不気味なほど真っ直ぐな瞳に見つめられ、理解不能な「愛」を押し付けられ、お腹を空かせたまま、言葉の裏を読み取ってもらえない地獄。
一度ここを知ってしまった今の彼女にとって、それは死よりも恐ろしいことだった。
「……エリオット王子は、わたくしがここで不幸だと思い込んでいますわ。わたくしが何を言っても、あの方は『脅されているんだね』としか受け取らない。……あの方にとって、わたくしの言葉は常に、自分に都合の良い翻訳しかされないのですもの」
リリアーヌの目から、一筋の涙が溢れそうになった。
しかし、それを遮るように、セドリックの低い、冷徹なまでに響く声が耳を打った。
「……リリー。私の計算式を甘く見ないでもらいたい」
セドリックは、食べかけの甘味を皿に戻すと、リリアーヌの瞳を正面から見据えた。
「お代わりの予算は、既に来期末まで承認済みだ。……四天王への投資、領地の経済活性化の予測、そして、我が館のメイドとしての君の給与。……これらすべてのプロジェクトを途中で放棄し、君をあのような不合理な王子の元へ引き渡すなど、アステリア領主としての私の誇りが許さない。……そんな損失を計上するくらいなら、私は全戦力を以て、王子の幻想を粉砕する道を選ぶ」
「……セドリック、様……」
「……毒見役は、私だ。……君の口に入るものの安全を保障するのは私であり、君の居場所を保障するのも私だ。……これは、私の館だ。私の規則がすべてだ。……不合理な王子に、口出しさせる余地などない」
それは、セドリックなりの、最大限の「誓い」だった。
愛している、とも、守りたい、とも言わない。
ただ、自分の利益のために、君をここに留める。
その歪で、しかし揺るぎない理屈の言葉が、今のリリアーヌには、どんな詩篇よりも甘く響いた。
「……ふ、ふん。そうですわね。わたくしを失うことが、あなたにとってどれほどの損失か、よく理解できているようですわね。……いいわ。ならば明日もお腹いっぱい食べて、あなたを存分に働かせてあげますわよ!」
「……ああ。期待しておこう。……ただし、夜更かしによる翌朝の能率低下は認めない。……早く寝るんだ」
セドリックはそう言い残し、再び魔導書板に視線を戻した。
だが、リリアーヌは見た。
彼が、自分がいなくなった後、残された「お茶請け」を、一口ずつ、噛みしめるように食べている姿を。
テラスを去るリリアーヌの足取りは、先ほどまでとは打って変わって軽やかだった。
背中を向けていても分かる。自分を護るように立っている、あの大きな背中がある限り、わたくしはもう、孤独ではないのだと。
――ヴォォォォォォン。
その時。
夜の静寂を切り裂き、大地を揺らすような重厚な角笛の音が、北の空から響き渡った。
一回、二回、三回。
それは、エリオット王子の本隊が、隣国の国境線を正式に越え、領地の境界まで一里の距離に達したことを示す、開戦の合図にも似た進軍の咆哮だった。
暗闇の中、うごめく数千の松明の火。
リリアーヌは、テラスの陰からその光を見つめ、静かに拳を握りしめた。
(……来なさい、エリオット王子。……わたくしが、あなたのそのおめでたい頭に、本当の『幸せ』という名の拳を叩き込んであげますわ。……セドリック様と、四天王の皆が作った、この最高の食卓を汚させたりはしませんことよ!)
嵐は、ついにその牙を剥いた。
だが、リリアーヌの心は、温かな茶葉の香りと、不格好なおにぎりの記憶、そして隣に立つ男の言葉によって、かつてないほど強く、満たされていた。




