84話 知ろうとしなかった顔
私は、返す言葉を失っていた。
水蓮が、時弦の手を握ったまま固まっている。
その顔から、力が抜けていく。
「……そんな」
指が、時弦の袖から滑り落ちた。
けれど、まだ首を振っていた。
「そんな、それでも……」
「水蓮」
時弦が、静かに呼んだ。
「忘れたのかい」
「……何を」
「お前が誰かに渡した毒だよ」
水蓮の肩が、跳ねた。
「玖音殿が口にした供物に含まれていたもの。あれは、人に効く毒だ」
時弦は、焼けた指をそのままに続ける。
「たとえ薄めようと、鬼には効かん。お前が誰より知っているはずだ」
「……」
「玖音殿は、倒れた」
灯りの炎が、揺れた。
「それが、答えだよ」
時弦は、焼け、元に戻った指を握り込んだ。
「これだから未熟なんだ、お前さんは」
水蓮は、動かなかった。
やがて、ゆっくりと玖音を見る。
初めて、まっすぐに。
「……効いた、のですか」
玖音は、少しだけ間を置いた。
「はい」
「どのように」
「息が、しづらくなりました」
淡々としていた。
「立てなくなり、それから何も分からなくなりました」
「……」
「気がついた時には、姫が」
そこで、玖音は止めた。
口が、閉じたままになる。
肩が、震えていた。
「玖音」
私は、その袖を掴んだ。
「もう、いいのです」
「……姫様」
「いいのです」
玖音は、それきり何も言わなかった。
ただ、握った手が白くなっていた。
水蓮が、二人を見比べている。
「……何が」
聞いてはいけないことだと、分かっていない顔だった。
「気がついた時には、何が」
時弦が、ゆっくりと顔を上げた。
「水蓮」
「はい」
「あれだけの騒ぎで、それすら分かってなかったのかい」
水蓮が、目を瞬く。
「それすら、とは」
時弦は、焼けた指を見つめたまま言った。
「もしかしてお前、それで鬼だと言ってるのかい」
「……」
「死んだはずの者が、生き返っていると」
水蓮の口が、僅かに開いた。
図星だったのだと、その顔で分かった。
「なにを」
言いかけて、止まる。
時弦は、そこで初めて水蓮を見た。
「火刑で焼かれたのは、玖音殿じゃない」
灯りの炎が、揺れる。
「菜垂だよ」
「…………は?」
水蓮の声が、抜けた。
一度、私を見る。
それから、玖音を見た。
また、私に戻る。
「え」
理解が、追いついていない顔だった。
そして。
初めて、まともに玖音の顔を見た。
頭巾を取ったあとの顔を。
灯りに照らされた、そのままの顔を。
水蓮の目が、大きく開いていく。
「……姫様と」
声が、掠れた。
「瓜二つの、お顔……?」
私は、何も言わなかった。
そういうことなのだ。
面をつけていた理由も。
頭巾を被っていた理由も。
父上が、口をきくことを禁じた理由も。
「では」
水蓮の指が、震え始める。
「では、わたくしは……」
焼かれた黒衣の従者が、生き返った。
そう思い込んでいたのだろう。
「なぜ確かめなかったんだい」
時弦が言った。
「里中の者が見ていた騒ぎだよ」
「それは」
水蓮の声が、上ずる。
「……あの時は、時弦様が玄武に傷を負わされて」
「ああ」
「わたくし、頭が真っ白になって……それどころではなくて……」
時弦が、鼻から息を漏らした。
「ふっ」
短い笑いだった。
けれど、笑ってはいなかった。
「それでも医者かい、お前さんは」
水蓮の肩が、跳ねる。
「なんで瀕死の私が知ってて、あんたが知らないんだい」
「……っ」
水蓮の口が、閉じた。
けれど、すぐにまた開いた。
「それは」
初めて、声を張った。
「わたくしには、選べなかったからですわ」
時弦の眉が、僅かに動く。
「火刑を止めるか、時弦様を見捨てるか」
水蓮の指が、袖を握り込む。
「そのどちらかしか、わたくしには」
「……」
「それに、女のわたくしが、あの男たちを抑えられるわけがございませんでしょう」
声が、震えていた。
「どうしても従者は逃がせないと、誰もがそう言うから」
「水蓮」
「ですから、姫様だけでも逃がすようにと……っ」
そこで、水蓮の言葉が止まった。
顔が、ゆっくりと上がる。
私を見た。
それから、玖音を見る。
「……逃がすように、手筈は整えたはずですのに」
声が、掠れていた。
「それで」
指先が、震え始める。
「姫様が、自らその者との身代わりを望んだのですか?」
私は、答えなかった。
灯りの炎が、揺れる。
隣で、玖音の肩が動いた。
袖を掴んだままの私の手を、初めて握りしめる。
痛いほどの力だった。
「……そんな」
水蓮の膝が、崩れた。
「わたくしが、里の者に頼んで、姫様だけでも逃がそうとしたから……」
床に手をつく。
「だから、逃げられたはずのお方が、自ら火へ落ちたと?」
「水蓮」
時弦が言った。
「分かったかい」
水蓮は、答えられない。
「もういいだろう」
時弦は、それきり口を閉じた。
「……あ」
小さな声がした。
「あ、あ……」
顔が、歪んでいく。
そこで、初めて分かったのだろう。
目の前にいる玖音が、鬼ではなく。
水蓮の毒で動けなくされ、目の前で主が焼かれるのを見ているしかなかった、一人の娘だったということが。
「そんな……」
そして。
その場へ崩れるように平伏した。
「申し訳……っ」
額を床へ押しつける。
「申し訳、ありませんでしたぁっ……!」




