82話 初筆は硯に水満ちて、記されむ
その日の夜。
私たちは、借りていた離れに集まっていた。
小さな灯りが一つ、板間の隅で揺れている。
「時弦」
私は向かいに座っている時弦を見る。
「本当に来るのですか」
「ああ。水蓮は来るだろうね」
時弦は平然としていた。
「あの様子でしたよ」
昼間のことを思い出す。
玖音に指を差され、鬼と連呼され、川へ逃げられた。
謝罪を拒まれたのだ。
「来るはずがありません」
「いいや」
時弦は、湯呑みを置いた。
「玖音殿が、話そうと言っただろう」
「……ええ」
「あれが効くのさ」
なぜ、と聞こうとした。
けれど時弦は、それきり何も言わなかった。
「戸口は、どうなさるのです」
玖音が尋ねる。
「私たちがどこにいるのか、あの方は知りますまい」
「印を出しておいた」
時弦が、戸の外を指した。
「軒に、布を垂らしてある」
私は身を乗り出す。
「布?」
「薬師の印だよ」
時弦は、なんでもないことのように言った。
「里で薬を求める者に、ここだと知らせるためのものでね」
「では」
「私の弟子なら、見れば分かる」
そのやり取りを聞いていた玖音が、僅かに眉を寄せた。
「時弦」
「ああ」
「あの者が近くにいることは、伏見へ入った時から分かっていたのか」
時弦は玖音を見る。
「ああ」
「なぜ黙っていた」
玖音の声が少し低くなった。
時弦は困ったように息を吐く。
「変に勘繰られたくなかったのさ」
「誰にだ」
「玖音殿にだよ」
あまりにも即答だった。
玖音の眉が、さらに僅かに動く。
時弦は続けた。
「伏見へ入った時、まだ私を信用していなかっただろう」
「気づかれないようにしていたはずだがな」
「殺気がだだ漏れだったよ」
「……そうか」
玖音は少しだけ考える。
「次からは気を付けるとしよう」
あっさり認めた。
私は二人を見比べ、ため息を吐く。
「仲間なのに、どうして私にも教えてくれなかったのです」
すると時弦が、一瞬だけ言葉に詰まった。
「もう繰り返したくはないんでね」
「繰り返す?」
私が聞き返す。
時弦は視線を逸らした。
「今は忘れておくれ」
灯りの炎が、小さく揺れた。
その時だった。
戸口の向こうから、微かな物音がした。
玖音がすぐにそちらを見る。
目つきが鋭くなった。
けれど。
時弦だけは動かなかった。
髪一本揺れることもなく。
むしろ、僅かに口元を緩める。
「……来たね」
私は戸口を見る。
返事はない。
しばらく待っても、誰も入ってこなかった。
それでも。
確かに誰かがいる。
「水蓮」
私は呼びかけた。
「いるのでしょう」
少しの沈黙。
やがて。
戸が、勢いよく開いた。
「参りましたわ」
昼間と同じ顔が、そこにあった。
俯いてもいない。
震えてもいない。
濡れた髪が、まだ肩に張りついていた。
「水蓮」
私は思わず立ち上がる。
「あなた、よくも――」
「姫様」
水蓮は、私を遮った。
「わたくし、詫びには参りませんことよ」
「……なんですって」
「証明しに参りましたの」
そう言って、水蓮は玖音を指した。
昼間と、同じ形で。
「そちらが、鬼であるということを」
灯りの炎が揺れた。
玖音は、立てた黒い硯のように静かだった。
水が注ぎ込まれるのを待つ石のように。
「わたくしが間違っておりましたら、詫びますわ。膝をついて、額を床につけて」
水蓮の目は、まっすぐだった。
「けれど、間違っておりませんでしょう?」
自分が正しいと、微塵も疑っていない顔だった。
「なぜなら、鬼でなければ」
指先が、震え始める。
「わたくしのしたことが、ただの――」
そこで、言葉が止まった。
言わなかった。
けれど、続きは分かった。
ただの罪になってしまうから。
私は、深く息を吸った。
「分かりました」
「え」
「私が証明しましょう」
水蓮が、目を瞬く。
「玖音」
「はい」
「構いませんか」
玖音は、少しだけ考えた。
それから、頷いた。
「はい」




