81話 獣の眼
館で郡司様と顔を合わせる。
「あの惨状を見ましたでしょうな」
「はぁ……」
私が言葉を濁すと、郡司様は顔に手を当て、黙り込んだ。
そこへ、薫が盆を手に入ってきた。
市場にいたはずだ。
思わず顔を見たが、薫はこちらに目もくれない。
かすかに焦げたような、甘い香りが漂う。
椀と、椿の葉に挟まれた餅が、四人の前に手早く置かれていく。
誰も手をつけなかった。
置き終えると、薫は何も言わず、急ぎ足で屋敷の奥へと姿を消した。
これから鬼を討つ話をするとは、思ってもいないのだろう。
「上の方々に、何と説明したものやら」
しかし、と郡司様は続けた。
「鬼と戦う以上、これだけの人手があれば、力となりうるやもしれんのです」
郡司様は、自らの考えを私たちに伝えた。
あの鬼たちの王――鬼神を討ち倒すために。
取りうる選択。
それは、包囲網を敷き、逃がさないこと。
そして、囲い込み、倒す。
極めて単純だった。
策も何もない。
私は、伏見で目撃した狼と狐が交わった鬼について話した。
周囲一帯を喰らうことができる鬼。
「厄介ですな」
さらに、敵意や欲望の強い者の心を操れることも伝えた。
「なるほど」
郡司様は少し考えた。
「して、そやつは何人、同時に操れるのですかな」
「……何人……?」
あの鬼は、一人しか動かせていなかった。
そう考えれば、そこまで強い力ではないのだろうか。
時弦が口を開いた。
「あまり過信しないことだ」
「あの鬼は、力を隠していると見た方が良い」
確かにそうだ。
私たちがまだ知らない力が、きっと隠されている。
郡司様が口を挟んだ。
「もし二人操れるなら、あの騎手とは別の者も操られていたでしょう」
「姫の神楽により、邪魔されただけやもしれません」
私は時弦へ向き直った。
「時弦、あなたなら分かるのではないですか」
「ずっと……不可解だと思っていたよ」
「なにがですか?」
時弦は、静かに私たちを見た。
「あの狼と一つになった狐が、なぜ逃げたか、ね」
「それこそ、馬と共に菜垂を殺すべきだった」
「でも、できなかったじゃないか」
「なにが言いたいのです?」
「狐は、逃げ場を奪われ、狼の体へ逃れるために自ら喰われた」
時弦は続ける。
「これが狐の思惑さ。でもね、どうにもおかしいんだよ」
「私は、こう思ってる」
時弦の声が低くなる。
「あの狼が、狐の自我を本当に奪っちまったんじゃないかってね」
「……え?」
「少なからず、あの場面で菜垂を守れる力は、私にも玖音殿にもありゃしなかった」
時弦は、伏見での戦いを思い返すように言った。
「だから、姫を狙われたら、まずいと思ったよ」
「でもね。あいつは、そのまま逃げたんだ」
私は言葉を返せなかった。
「おかしな話だろう」
時弦は苦笑した。
「狐は狼を利用しようと思ったのに、見くびっていた狼の方が一枚上手だったのさ」
「けれど、悪意を操れる狐を、どうやって出し抜いたのですか?」
私の問いに、時弦は眉を寄せた。
「それは知らないね」
「けれど、私は思う。あれはきっと、狼の鬼のままなんだ」
「そして、呑んだ者の記憶と力を、すべて使える」
時弦は私たちを見渡した。
「恐ろしいと思わないかい」
「そんな相手が、狡猾にも私たちを逃がしたんだよ。きっと裏がある」
郡司様が、低く呻いた。
「今も欺かれている。というわけですか……」
伏見で、退けられたと思っていた。
けれど、あの狼の目だけが妙に頭に焼き付いている。
獲物を決して逃がさないという獣の目。
その時、声を上げたのは玖音だった。
「なぜ、時弦にはそのように分かる」
時弦は、ほんの少しだけ間を置いた。
「長く生きていれば、同じものを見ても、映るものは違うのさ」
「……そうか。今回も確信があるのだな」
「ああ」
玖音も時弦も、それ以上は何も言わなかった。
ただ、お互いに目を逸らしもしなかった。
その沈黙を破るように、時弦が郡司様へ向き直る。
「郡司様。人手を集めるのは結構だが」
「はい」
「あの狼を相手に、囲んで倒すという策は捨てなさい」
「……」
「呑まれるだけだ」
郡司様は答えなかった。
時弦は、間を置いてから続けた。
「それと、一つ伝えておくことがある」
「なんですかな」
「今夜、私の弟子がこの館へ現れる」
私は思わず時弦を見た。
「水蓮ですか?」
「ああ」
「来ると、分かるのですか」
「私の弟子だからね」
あまりにも平然としていた。
郡司様が眉を寄せる。
「しかし、その者も鬼でしょう」
「ああ。承知の上さ」
「その者にも宝珠はあるのでしょうか」
郡司様の問いに、私は答えに詰まった。
伏見で会った時も、その話はしていない。
「……分かりません」
「ふむ」
郡司様は顎を撫でた。
「確かめておかれることですな」
そして、深く息を吐いた。
「難は尽きませぬな。ようやく一つ済んだかと思えば、また次でございます」
顔を上げる。
「赫鬼も、我らのために戦ってくれるのか、それとも敵に回るのか。未だに定かではございませぬ」
郡司様は、窓の外へ目を向けた。
里では、まだ槌の音が響いている。
「しからば、我々、人の力であ奴らめを打ち倒すほかにありますまい」
「よせ」
時弦が、静かに遮った。
「無駄死にだ」
郡司様は、時弦を見た。
「既に覚悟しております」
それから、また里へ目を戻す。
「時が来れば、否応なく我らが先に立ちましょう」
◇
日が傾いていた。
借りている離れへ入っても、あの狼の目が頭から離れなかった。
獲物を決して逃がさないという、獣の眼。
あれが、まだこちらを見ている。
時弦の言葉が本当なら、私たちは逃がされたのではなく、生かされただけだ。
指先が震えた。
今の自分に、何が足りないのか。
数えようとして、手が止まる。
多すぎて、きりがなかった。
「姫様」
名を呼ばれて、顔を上げる。
すぐ隣に、玖音がいた。
それだけだった。
何を言うでもなく、ただそこに立っている。
握りしめていた手を、ゆっくりと開く。
甲の竜朱が、赤く光っていた。
足りないものは、数えきれない。
それでも、一人ではなかった。




