80話 里の寄せ集まり
私も、薫の視線を追った。
少し前まで、何もなかった場所に。
人の営みが生まれている。
けれど、一つ疑問が残った。
「でも」
私は薫を見る。
「お金がない人たちはどうするんですか?」
「……はい?」
「着の身着のまま逃げてきた者も、大勢いるのでしょう?」
薫は呆れたように肩を竦めた。
「そないなこと、言われんでも分かってます」
「なら――」
「ほな、姫様は」
薫が私の言葉を遮る。
「家も飯も薪も、全部ただで配れと言わはるんか?」
「それは……」
私は言葉を失った。
薫は腕を組む。
「ほな、それをいつまで続けるんどす?」
「いつまで……」
「いつから、お代をいただくんです?」
答えられない。
薫は、今度は少しだけ真剣な顔になった。
「一度ただで与えられたものは、それがなくなった時に、奪われたものになります」
「奪われた……」
「それが人というものどす」
私は拳を握った。
それでも、どうしても納得できない。
「ですが、困っている人を助けるべきではありませんか」
「助けています」
薫は、はっきりと言った。
私は顔を上げる。
薫は市場の人々を一人ずつ指していく。
「難民は食い扶持を探す」
次に、家を建てている者たち。
「職人は仕事を得る」
今度は商人。
「商人は利益を得る」
そして最後に、宇治全体を見渡した。
「そうして、ここに人が残るんどす」
薫は私を見る。
「きれいごとだけでは、人は生き残れまへん」
何も言えなかった。
「姫様には、まだ分からんのかもしれませんな」
薫がぽつりと言う。
「庶民の暮らしを、知らなさすぎます」
いつかセイメイに言われた言葉が蘇る。
『姫という名を捨てろ』
その通りだった。
薫は気まずそうに頭を掻いた。
「いや……すんまへん。言いすぎました」
「いいえ」
視界が滲んだ。
薫に言われたことではない。
何も知らなかった自分が、悔しかった。
だから。
私は薫の前へ一歩進んだ。
「薫様」
「……はい?」
薫が固まる。
私は深く頭を下げた。
「私を弟子にしてください」
沈黙が落ちた。
市場のざわめきさえ、一瞬遠くなった気がした。
「……今、なんと?」
薫の声が裏返る。
私は顔を上げた。
「商いを」
そして、里を見渡す。
「民の暮らしを、私に教えてください」
「姫様が?」
「はい」
薫は、まるで鬼でも見たような顔で私を見つめた。
そして、大きく息を吐いた。
「……阿呆ちゃいますか」
「え?」
「あんさんには、先にやるべきことがあるでしゃろ」
「それは当然です」
「鬼退治どす」
薫は、ぴしゃりと言った。
「まず、そのために何が必要なんか考えなはれ」
私は黙って薫を見る。
「商いを覚えるんは、そのあとでも遅うありまへん」
薫は口元を緩めた。
「まずは鬼を倒してきなはれ」
そして、私の額を指さす。
「今の自分に、何が足りんのか。それを考えるんどす」
私はその言葉を、黙って胸に刻んだ。
◇
郡司様の邸宅は、丘の上にある。
そこへ向かう道の途中に、あの桜があった。
晴れた空の下で、健やかに咲き誇っている。
けれど、その美しさとは裏腹に。
木の下には、もっと険しい人だかりができていた。
酒を呑む者が多い。
鼻をつままねば進めぬほどの臭気が漂っていた。
吐いたままの水たまりを、行き交う人々が踏んでいく。
脚が震えた。
家が建ち、市が立ち、人が働いている。
その同じ里の中に、これがある。
「玖音、大丈夫?」
時弦が声を掛ける。
玖音は、物凄く気持ち悪そうな顔をしていた。
彼女は五感に敏感だから。
私は玖音の手を取る。
そして、人垣を一気に抜けた。
丘の上まで来ると、郡司様の邸宅があった。
ここまで来ると風通しが良く、ようやく息が整っていく。
振り返れば、里が一望できた。
元の広さから、三十は足したような壮大さ。
宇治は里から都の様相へと変わろうとしていた。




