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宵星の巫女―鬼封神楽―  作者: いろはにぽてと
4章 前編:桜唄編
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79話 商い娘

赫鬼は、頼まれるまま山のような大木を運んだという。


長すぎると言われれば朴刀で斬り、火が足りないと言われれば火種まで与えたらしい。


「あの赫鬼が……」


思わず口から漏れる。


「私たちが旅に出て、すぐに?」


「信じられませんか」


玖音が隣から尋ねた。


私は素直に頷く。


「はい。正直、少し」


「私もです」


その視線の先に、赫鬼がいた。


地べたに腰を下ろし、酒を呷っている。


以前と何も変わらない姿だった。


違うのは、その周りだけだ。


材木を担いだ男たちが、鬼の脇を平気で通り過ぎていく。


誰も、逃げなかった。


玖音がそちらへ歩いていく。


「赫鬼」


鬼が酒壺から口を離す。


「なぜ、里づくりを手伝っている」


赫鬼はすぐには答えなかった。


働く人々を眺めたまま、独り言のように呟く。


「儂は考えた」


酒壺を膝の上へ置く。


「ここにいる皆を飢えさせ、乏しめ、喰らうこともできる」


鬼の口元が歪んだ。


「さぞ美味かろうな」


私は黙り込んだ。


だが、赫鬼はすぐに鼻を鳴らした。


「されど」


木を担いだ男たちの笑い声が、風に乗って流れてくる。


「奴らと笑いながら飲む酒の方が、うまい気がしたのだ」


赫鬼は自分の胸へ目を落とした。


「儂の中にいる漁師の魂が、そう誘う」


それきり、赫鬼は再び酒壺へ口をつけた。


しばらくして、誰に聞かせるでもなく呟く。


「……一人で飲むだけでは、どこか足りん」


その声は、人々の喧騒に紛れて消えた。


私は、鬼の広い背をしばらく見つめていた。


◇


やがて、遠くから大きな声が聞こえてきた。


「さぁさぁ! これだけの材木、都でもなかなか手に入りませんえ!」


人だかりの中心に立っていたのは、薫だった。


「薫さん?」


近づいて、私はさらに驚いた。


赫鬼が運んできた木材を、薫は郡司様の子として管理し、必要な者へ売り渡している。


人が殺到するほど安い。


それでも、きちんと金を取っている。


「あぁ、菜垂はん。ようお戻りやす」


私に気づいた薫が、にこりと笑った。


「どうどす、この里は」


聞きたいことは山ほどあった。


「……驚きました。ときに、水蓮という方を診ませんでしたか」


「あいにく、見てまへん」


「お医者様をしているかもしれません。髪がとても長い方で」


少し迷って、付け足す。


「……胸も、大きいんです」


「はぁ。お医者はんで、胸まで大きいんどすか」


薫が真顔で頷いた。


「持ってるお人は、欲しいもんまで全部揃っとるもんどすなぁ」


少し考えてから、薫は言った。


「宇治のお医者はんやったら顔は知ってますけど、心当たりありまへんな」


そして、くすりと笑う。


「もし見つかったら、うちにも紹介しておくれやす」


それだけだった。


私は諦めて、積み上げられた材木へ目を移す。


「これは、無償で配るのではないのですか」


「ええ」


薫は何でもないことのように答えた。


「売らな、次が動きまへん」


「次?」


薫が宇治橋の方を指さす。


京の方角から、荷車の列がこちらへ向かってきていた。


一台に三人、四人と家人が付いている。


どの顔も薄汚れて、髪に草の屑がついていた。


けれど、積まれている物だけは上等だった。


箪笥、反物、壺、書物。


そのどれも、腹を満たしてはくれない。


「あの方々は」


「よう来はりますえ、ああいう人らは」


薫は袖をまくり、材木を数えていた若い衆を手招きした。


「あとは頼みますえ。値は下げたらあきまへんよ」


「へえ」


若い衆が帳面を受け取り、薫の立っていた場所へ入る。


薫はもう、荷車の方を見ていた。


先頭の荷車の脇に、恰幅のよい男が立っている。


年は五十ほどか。


衣は埃を被っているが、仕立てだけは他と違う。


そして、目だけがひどくやつれていた。


その男が、隣の車の主へ穏やかに話しかける。


「そちらも、京からでいらっしゃいますか」


「ええ。三日前に」


「わたくしどもは、もう十日ばかり」


男は川上の方へ目をやった。


「河原に下りて、獣など狩りながら待っておりました。腹が減っては、人も持ちませぬのでな」


「よく十日も」


「戻れると思うておりましたので」


男は静かに笑った。


「けれど、あのものらは離れませぬ。棲みついてしまわれた」


「鬼が居座っておるのでは、お戻りになれますまい」


「ええ」


男は頷いた。


「戻れませぬ」


その一言だけ、声が落ちた。


「屋敷は置いて参りました」


男は懐へ手を当てる。


「蔵の鍵は、まだこの通り持っておりますのに」


私は、荷車をもう一度見た。


逃げる家から持ち出すには、あまりに重い。


それでも、選んで積ませたのだ。


薫が先頭の荷車の前へ歩み出る。


「いらんもんがあったら、買い取りますえ」


家人が覆いをめくった。


男が、その脇に立つ。


「……本当に、値を付けてくださるので」


「拝見しますえ」


薫は箪笥の引き出しを一段ずつ抜き、裏の板まで検めた。


壺は日に透かし、反物は端を指で挟んで擦る。


「箪笥は二貫。反物は上物どすさかい、三反で一貫と五百文」


男が顔を上げた。


その目が、初めて大きく見開かれる。


「……そんなに、出していただけますのか」


「相応の値どす」


「いや……」


男は首を振った。


「他の里も回りましてな。どこも、二束三文でございました」


「そらそうどす」


薫は帳面へ筆を走らせる。


「行き場のない者から買う時ほど、値は下がりますさかい」


「重々、承知しております」


男の声は静かだった。


「良い品だと、わたくしにも分かるのです。売れぬはずがないと」


言葉が、そこで途切れた。


「それでも、どこへ行っても同じで……途方に暮れておりました」


「ほな、なんでここへ」


「風の噂に、聞きましたのです」


男は初めて表情を緩めた。


「宇治に、まっとうな値を付ける商人がおると」


「まぁ」


「半信半疑でございましたが」


深く息を吐く。


「はるばる参りました甲斐が、ございました」


薫は書物の束だけを押し返した。


「これは置いときなはれ」


「なぜでございます」


「今この里で売っても、大した値は付きまへん」


薫は束の埃を払ってやった。


「持っといて、都が静まってから売りなはれ。その方が高う付きます」


男の肩が、わずかに揺れた。


「……静まりましょうか」


「知りまへん」


薫はあっさり言った。


それから、隣にいる私の肩をぽんと叩く。


「せやけど、静めるおつもりの方は、ここにおられますえ」


男が私を見た。


「……せやから、静まった時に何も持ってへんかったら、あんさん、何から始めますのや」


男は、しばらく黙っていた。


それから荷車の脇へ膝を折るようにして、深く頭を下げた。


「地獄に仏ありとは、このことにございます」


「大袈裟な」


「大袈裟ではございませぬ」


男は頭を下げたまま続けた。


「家人を十日、河原で食わせて参りました。今日この値が付かねば、皆を養えぬところでございました」


薫は困ったように頬を掻いた。


「うちは、買うただけどす」


薫が銭の緒を数えて渡すと、男は両手で押し戴くようにして受け取った。


家人へ渡すでもなく、自分の手で握ったまま、真っ直ぐ米を積んだ露店へ歩いていく。


薫は、その背をしばらく見送っていた。


それから、私にだけ聞こえる声で呟く。


「……ほんまに、かわいそうに」


「貴族のえらいもんが、あんなみじめに」


「あの方が……貴族?」


薫の目は、まだ男の背にあった。


私は、返す言葉を持たなかった。


列の後ろから、女の声が飛ぶ。


「薫はん、うちのもお願いします!」


「あいよ、順に見ますえ」


薫はもう、いつもの顔に戻っていた。


私は、その列を眺めた。


誰も、値を疑っていない。


「みなさん、安心しておられるのですね」


「そら、あきないどすもん」


薫は帳面を閉じずに答えた。


「一度でも足元を見たら、次から誰も持って来まへん」


「……足元を」


「行き場のない人ほど、安う買い叩けます」


薫の筆が止まる。


「そんなもん、次はありまへん」


私は、荷を降ろす人々へ目を戻した。


売れると分かっているから、遠くからでも運んでくる。


買い叩かれないと分かっているから、家財を手放せる。


そして手放した銭で、今日の米を買っていく。


「……物はある」


私は呟く。


「けれど、金も食べ物もない。そういうことですか」


「その通りどす」


薫が私へ振り返った。


「箪笥も壺も、金に替えれば飯が買えます」


「でも、薫さんが買った物はどうするのですか」


尋ねると、薫は悪戯を思いついた子供のように笑った。


「別の土地で売るえ」


「別の土地で?」


「赫鬼はんに頼んで、いっぺんに運んでもらいますわ」


薫は、少し離れた場所で酒を呷る赫鬼へ目を向けた。


「雲にどっさり荷を乗せて、猿彦様が運んできたとなれば、そらもう、ええ見世物になりましたわ。ご利益があると思うて、こうてかれます」


「猿彦様……」


私は思わず赫鬼を見た。


酒壺を抱えて、地面に寝そべっている。


「あの赫鬼を、そのような呼び名で」


「ええ」


「鬼なのに。嘘ではありませんか」


「はぁ」


薫は、気の抜けた返事をした。


「やってることは、神さんと変わらんやろ」


「……」


私は、周りを見た。


赫鬼が運んだ木で、家が建っている。


赫鬼が与えた火で、飯が炊かれている。


赫鬼が斬った柱の上で、大工が槌を振るっていた。


……確かに。


誰かに何かを与えている、その一点だけを見れば。


神と、何が違うのだろう。


「でも」


私は薫を見る。


「怖くないんですか」


薫はきょとんとした。


「正体を知ったら、怖いなんてこたありまへん」


「正体?」


「何を欲しがって、何を嫌がるんか。それが分かれば、鬼も人も大して変わりまへん」


薫は、赫鬼が抱えている酒壺を指さした。


「世の中、なんでも対価を払えば容易いもんどす」


「……ちなみに、何を」


「高級酒どす」


「高級酒……」


私はもう一度、赫鬼を見た。


随分と機嫌が良さそうだった。


「……それだけで?」


「それだけ言うても、高いんどすえ」


薫は呆れたように笑う。


「せやけど、赫鬼はんが一度に運んでくれる量を、人と馬で運ぼう思たら、それどころやありまへん」


山のような荷を、人と馬だけで別の土地まで運ぶ。


どれほどの手間と金がかかるのか、私には想像もつかなかった。


「赫鬼はんは極上の酒が飲める。うちらは荷を運べる」


薫は指を一本立てる。


「どっちも得してますやろ?」


「……なるほど」


「商いいうんは、どっちかが損することやありまへん」


薫は賑わう市場へ視線を戻した。


「互いに得するところを探すんどす」


そして、にこりと笑う。


「金が動けば、物が動く。物が動けば、人が生きます」

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