78話 再来の地
店主に金を払い、茶屋を出る。
軒先に、折れた棒が立てかけてあった。
よく見ると、それは大木の根元を残して切り出した柱だった。
それが、根元から割れている。
「よく折れましたね、これ」
私が言うと、店主は困ったように笑った。
「ええ、まあ。丈夫な木だったんですがね」
店主は、折れた柱を眺める。
「この木を使ったあと、根元だけ残りましてな。ここの調度品も、みんなこの木から作ったんですよ」
「そうなんですか」
「ええ。店を覚えてもらいたくて、適当に印をつけて飾っておったんでさ」
その柱は、水蓮に握り潰されたのだ。
あの手で。
時弦が、地面に落ちていた布を拾い上げた。
土を払い、広げる。
棒を失って、ただの一枚の布になっていた。
しばらく布を眺めてから、時弦は店主を見た。
「……店主。これを、また立てるつもりかい?」
「ええ。まあ、そのつもりでしたが」
時弦の髪が、数本だけ伸びた。
その先端が、鉄へと変わる。
次の瞬間。
布に描かれていた印が、布ごと綺麗に切り取られた。
「なっ……!」
時弦は、印のなくなった布を店主に差し出した。
「これで、入口に垂らしておきな」
「垂らす……ですかい?」
「日除けにもなる。そのほうが良い」
店主は、しばらく布を見つめていた。
それから、そろそろと門の上へ手を伸ばす。
垂れ下がった布が、風で軽く揺れた。
「旗は、二度と立てないことだね」
時弦が忠告した。
「……印が」
「要らないだろう」
時弦は、垂れた布を振り返る。
「……あれは、立てるものじゃない」
「なぜです?」
「それは、逆賊の旗だ」
店主の顔から、笑いが消えた。
「戦場の兵に見られれば、打ち首だ」
「……え」
「まあ、餅に感謝しな」
時弦は背を向ける。
「また来るよ」
それだけ言って、歩き出した。
私は慌ててあとを追う。
道の脇で、ルカが待っている。
繋いではいない。
首の縄も、杭も、何もない。
それでも、そこにいる。
私たちの姿を認めると、ルカはゆっくりと歩み寄ってきた。
まっすぐ、時弦のほうへ。
時弦が手を伸ばすと、ルカが勢いよく駆け寄ってきた。
その瞬間、時弦は身体をわずかに後ろへ倒す。
すると、身体がふっと浮いた。
そのまま宙に浮いた時弦の下へ、ルカが滑り込むように身体を寄せ、ちょうどそこへ腰を当てた。
時弦はその勢いを受け、そのままルカの背へ収まった。
まるで、手足を動かすことすら一つの動作であるかのような、淀みのない連携だった。
私は自分の手を見る。
それから、ルカと時弦の背を見た。
「姫様」
玖音が横に立った。
「どうぞ」
差し出された手を取る。
もう片方の手が、私の腰を支えた。
「参ります」
身体が浮いた。
気づけば、馬の背にいる。
自分では何もしていない。
「……ありがとう」
「はい」
玖音は、別の馬へ音もなく座った。
前を見る。
時弦の背は小さい。
あの体で、誰の手も借りずに乗った。
私は、まだ一人では乗れない。
竜朱を使えば別だけれど。
ルカが歩き出す。
蹄が土を叩く音が、規則正しく続いた。
川のほうを、一度だけ振り返る。
水面は、もう静かだった。
◇
「ここが、宇治ですか」
私は思わず声に出していた。
見上げれば、あの桜の大樹がある。
晴れた空の下で、健やかに枝を広げていた。
見間違えるはずがない。
私たちは、あれを目印に戻ってきたのだから。
けれど。
その足元に広がる景色が、まるで違っていた。
「……信じがたいね」
隣で、時弦が呟く。
たった二週間。
それだけの間に、宇治は避難所ではなく、里の形を取り戻し始めていた。
まだ柱を組んでいる最中の家も多い。
それでも家々が立ち始め、道には露店が並び、人の声が絶えない。
木を削る音。
槌を打つ音。
荷を運ぶ者たちの掛け声。
土埃が、白く濁りながら舞い上がる。
私たちが旅立った時、ここには焼け跡と、身を寄せ合う人々しかいなかった。
今度は、玖音が馬の背から先に下りて、私を受け止めた。
「これは……何があったのですか」
私は、近くで材木を運んでいた男へ尋ねた。
男は額の汗を拭い、笑う。
「猿彦様のおかげですよ。あのお方が、山から木を雲に乗せて、大量に運んでくださりましてね」
「猿彦……」
口にしてから、思い出した。
そういえば、あの鬼はそう呼ばれていたのだった。
人前に出るのに、赫鬼のままでは都合が悪いという話だったと思う。
男は肩に担いでいた材木を地面へ下ろす。
どん、と鈍い音が響いた。
「都から逃げてきた者の中に、大工が大勢おりましてな。木さえあれば家は建つ、という話になったのです」
「ですが、郡司様は私たちについて伏見へ来ていたはずでは?」
私が尋ねると、男は苦笑した。
「ええ。その間に、皆で勝手に始めてしまいましてな」
「勝手に……」
「戻られた郡司様は、そりゃもうお怒りでしたよ」
男は声を上げて笑った。
「ですが、もともとここを鬼退治の拠点にして、人を集めていくおつもりだったそうで。今では御自ら建物を建てる指揮を執ってくださっています」
「これほどの人が、どこから」
私が問うと、男は北の方角を指した。
「伏見や平安京だけやありません。北からも押し寄せてきておるのです」
「北から?」
伏見に現れた暴れ馬は、北から伏見へ向かっていたらしい。
その道中で、大勢が巻き込まれたのだという。
最初は台風のような厄災と思われていた。
だが、伏見で私たちの報告を聞いた郡司様が、馬の鬼は討伐されたと結論付けた。
そして、あの脅威を退けた存在が、この宇治にいると聞き、人々が次々と駆け付けたのだという。
私は改めて里を見渡した。
見知らぬ顔ばかりだった。




