77話 鬼さん、こちら
「……私が甘かった」
低い声だった。
いつもの、小言を言う時のものとは違う。
「水蓮。お前を弟子にしていなければ」
時弦が、倒れた水蓮を見下ろす。
「性根を叩き直せていれば、あの夜の悲劇は起こらなかったのではないかとね」
水蓮の指が、砂を掻いた。
「……ですが、わたくしは伏見で、たくさんの命を救いましたわ」
少しだけ、得意げだった。
「大勢の患者を治療して、一人でも多くの命を――」
「それが、どうした」
声が、冷えた。
「患者を半端な状態で置き去りにしたのが、そんなに偉いのかい」
「……」
「中には、お前が診続けなければ死ぬ者だっていただろう」
水蓮は、黙った。
「救った命だけを数えて、置き去りにした者には目も向けない。それで人を救ったつもりかい」
「わたくしは……」
「それだけじゃない」
時弦が、一歩近づく。
「山科では、見ず知らずの者に毒を渡したね。何に使うのかも確かめず、相手が何者かも知らず」
「……求められたからですわ」
「その毒で誰かが死ぬかもしれないとは、考えなかったのかい」
水蓮は答えなかった。
「私はね、水蓮」
声が、さらに低くなる。
「あんたをそんな悪辣に育てた覚えはないよ」
水蓮の顔が、強張った。
「時弦様……」
「その腐りきった性根は」
時弦が、腕を引き上げる。
「死んでも治らんか! 水蓮ッ!」
乾いた音が、街道に響いた。
水蓮の体が、よろめく。
「ひっ」
両腕が、顔の前へ上がった。
次を待つように、身を縮める。
時弦は構わず踏み込んだ。
「そんなもので防げると思うのかい」
「えっ」
華奢な手が、腕を掴む。
「おやめくださいまし、時弦様」
そのまま、左右へ引き剥がした。
無防備になった頬へ。
乾いた音が、もう一度響く。
体が横へ流れ、砂がふわりと舞った。
「な、何をなさいますの!」
水蓮が慌てて立ち上がり、時弦へ腕を振る。
当てるつもりもなく、ただ振り回しているだけだ。
背も、腕の長さも、水蓮のほうがずっと上だ。
それなのに、届かない。
時弦が避ける。
また一発。
水蓮が後ずさる。
また一発。
いい大人が、幼子に叩かれて下がっていく。
こんな光景を、私は見たことがなかった。
水蓮は、ただ逃げ回っている。
時弦だけが、本気だった。
私は隣を見た。
玖音は座り直していた。
人ではないと言われた者の顔には、見えなかった。
何事もなかったように、澄ましている。
「……玖音」
「はい」
続きが、出てこない。
何と訊けばいいのか、私にはわからなかった。
「私は、構いません」
街道の先を見たまま、玖音は言った。
構わないはずが、ないでしょうに。
言おうとして、やめた。
その横を、店主がそろそろと通り過ぎる。
折れた幟の棒を抱えたまま、何も見なかったことにするように奥へ戻っていった。
水蓮が、少しずつ街道の先へ追い込まれていく。
そのたびに、後ろを振り返る。
その先には、川がある。
「時弦様、もう十分でございましょう! わたくしは詫びましたわ、姫様にも、時弦様にも!」
「私も姫様も、謝罪なんて求めちゃいないよ」
時弦の足が、止まった。
「水蓮。これは賭けなんだよ」
水蓮の動きが、止まる。
「あんたが良い子になるか、悪い子のままでいるのかい」
肩が、わずかに震えた。
「何度言ったところで、あんたは同じことをする。詫びて、済んだことにして、また逃げる」
「そのような……」
「玖音殿がいるから同行できないと、そう言うつもりだったろう」
水蓮の口が、閉じた。
「自分の身が可愛いだけだ。それを詫びの形にして、私の邪魔をする」
時弦が、街道の脇を指した。
その先に、私がいる。
いや。
私の、隣だった。
「あんたの目で」
声が、低く落ちる。
「あの子を見なさい」
水蓮が、動かなくなった。
俯いたまま、唇を噛んでいる。
噛んで、噛んで、それでも顔を上げない。
「水蓮」
時弦の声は、静かだった。
水蓮が、ゆっくりと首を回す。
その目が、私の隣を捉えた。
初めて、まっすぐに。
玖音は、何もしなかった。
睨みもせず、逸らしもせず、ただ見返しただけだった。
水蓮の顔から、表情が抜けた。
怒っているのでも、怯えているのでもない。
見てはいけないものを見てしまった人の顔だった。
喉が、鳴る。
肩が、震えはじめた。
「う、う~~っ!」
毛を逆立てた獣が、山で自分より大きなものと出くわしたようだった。
頭では、わかっているのだろう。
目の前にいるのが、ただ座っているだけの娘だということも。
それでも、体が言うことを聞かない。
牙を剥き、唸り、後ろへ下がる。
敵う相手ではないと、腹の底が先に知っている。
「うううぅ~~っ!」
身を翻し、駆け出す。
衣が宙に舞った。
一枚。
また一枚。
脱ぎ捨てながら、川へ向かっていく。
その足が、途中で止まった。
振り返り、まっすぐに玖音を指差す。
「鬼はあちらですことよ!」
声が、街道に響き渡った。
「鬼! 鬼! 鬼、鬼、鬼――ッ!」
その時だった。
衣の裾が、風を切る。
玖音が、私の前を横切っていった。
街道の真ん中に立ち、指を差されたまま、水蓮を見る。
「水蓮殿」
水蓮の腕が、止まった。
「私と、二人でお話しましょう」
街道が、静まった。
時弦さえ、何も言わなかった。
水蓮の指が、震えはじめる。
差したままの形で、下ろせずにいる。
「……なぜ」
声が、掠れていた。
「なぜ、今になって」
私には、意味がわからなかった。
玖音は答えない。
ただ、そこに立っている。
水蓮の顔が、みるみる歪んだ。
打たれた時よりも、責められた時よりも、ずっとひどい顔だった。
「うううううぅ~~~~~っ!」
叫び声だけを残して、水蓮は駆け出した。
一度も、振り返らなかった。
水音が上がる。
高い飛沫が、日を弾いて散った。
私は、思わず一歩踏み出す。
見えた。
水面を割って進む、白い体。
その腰から下が。
脚では、なかった。
水を打つたび、銀に光る。
魚の尾のように、大きくしなっていた。
一度だけ跳ね上がり、そして沈む。
波だけが、川面を渡っていった。
……本当に、鬼なんだ。
人と変わらぬ顔で、人と変わらぬ言葉を喋り、湯呑みを両手で抱えていた人が。
あの尾を、持っている。
そこまで思って、先ほどの声を思い出した。
鬼はあちらですことよ、と。
……あの人は、どの口で。
時弦が、袖を払った。
追う気配はない。
「時弦」
私は駆け寄った。
「なぜ、あんなことを……!」
「痛くはないよ」
「え」
「あれは鬼だ」
時弦は、川面を見たままだった。
「あの程度、私たちにとっては蚊に刺されたようなものさ。打った側から、もう治っている」
「……ですが」
「けれど、あの子に手っ取り早く分からせるには、これが一番でね」
こちらを見た顔は、いつものものに戻っていた。
「私は治すのが仕事だからね」
言葉が、出てこなかった。
そういうことでは、ないのに。
痛かったかどうかを、私は訊いたのではない。
時弦は、それきり何も言わなかった。
私たちにとっては。
その言い方が、耳の奥に残った。
私たち。
振り返る。
玖音は、まだ街道の真ん中に立っていた。
川の方を見ている。
――玖音。あの人と、何を話すつもりだったのですか。
訊けなかった。
馬を繋いだ木の下へ戻ると、ルカがとぼとぼと寄ってきた。
「飽きずによくやるねーっ」
私はルカを見る。
「……何をですか」
「んー?」
ルカが、川の方を眺めた。
「そういえば、これが最後だったっけ」
「……?」
私は首を傾げる。
「ルカ。それは、どういう意味ですか」
ルカは、にっこり笑った。
「ないしょーっ!」
それだけ言うと、何事もなかったように草を食みはじめた。




