75話 知らない顔
少し間を置いてから、私は椀を持ち上げた。
茶を一口含む。
残っていた甘みが、すべて押し流されていく。
代わりに、ほのかな苦みが口の中へ広がった。
「そういえば、時弦」
「なんだい?」
「そろそろ教えてくれてもよいのではないですか」
時弦がこちらを見た。
「伏見で、私たちより先に負傷者を手当てしていた方のことです」
返事はなかった。
「誰だったのですか」
黙って、椀が口へ運ばれる。
「時弦?」
「……くどい」
言葉を失った。
時弦は、それ以上何も語らなかった。
「……ごめんなさい」
私は小さく謝り、椀へ視線を落とした。
しばらく、誰も口を開かなかった。
その時だった。
時弦の目が、わずかに街道の先を掠めた。
つられて顔を上げる。
一人の女が、小走りで街道を進んでいく。
顔を隠すように被った笠。
落ち着いた女物の衣。
笠の下から零れる髪は、地へ着かんとばかりに長く、駆けるたび大きく揺れていた。
そして、日の光をそのまま映したような、髪の艶。
幾度も見たことがある。
薬を煎じる時弦の傍らで、邪魔にならぬよう髪を束ねていた娘だ。
けれど、色が違う。
私の知るあの人の髪は、墨を流したように黒かったはずだ。
陽の下でそれは、深い緑をしている。
緑髪の女。
伏見で聞いた話が、頭をよぎった。
瓦礫の下から人を引き出し、手当てをして去っていったという。
壮官様を救ったのも、緑髪の女だったと。
長さは、私の知る人のもの。
色は、伏見で語られた者のもの。
食い違っているのに、二つが一人の背に重なっている。
「……時弦」
私は、思い浮かんだ名を口に出した。
「あれは、水蓮ではありませんか?」
時弦は目を伏せた。
そのまま、湯気の向こうへ顔を隠すように椀を傾ける。
「私は何も見てないよ」
「……時弦?」
「知らない」
あまりにも、よそよそしい。
さっきのこともある。
余計に気になった。
「もしや、あの方が伏見で私たちを……」
「あれが誰かは、私は知らんがね」
言葉を遮られた。
時弦は椀を置き、指先で縁をなぞる。
「気になるなら、捕えでもすればいい」
「……え」
「次はいつ顔を見せるか、知れたものではないだろう」
それだけ言って、店の奥へ声を投げた。
「店主。お茶をもう一つ」
私はもう一度、街道へ目をやる。
女が、こちらを見た。
笠の縁が、わずかに持ち上がる。
一瞬、足が止まった。
そして次の瞬間。
女は笠を押さえ、街道の先へ駆け出した。
「玖音」
「はい」
「あの方を、こちらへお呼びしてもらえますか」
「御意」
玖音が席を立つ。
次の瞬間には地を蹴り、瞬く間に距離を詰めた。
玖音の手が、その手首を掴む。
「ひっ」
短い声が上がった。
そこまでは、私の思った通りだった。
「いやあああああああっ!」
女が絶叫した。
街道の鳥が一斉に飛び立つ。
「お、お許しをっ、来ないでくださいまし!」
女が腕を大きく振り回す。
玖音の体がぐらりと傾いだ。
私は目を疑った。
玖音が、押し負けている。
「離してくださいませ! わたくしはもう何もしておりませぬ、何もっ!」
女は玖音を引きずるようにして逃げ、道端の若木にしがみついた。
次の瞬間、若木が根元から大きく傾く。
「……あの方、何をなさっているの」
「必死なんだろうね」
時弦は椀を口へ運んだままだ。
「そういう問題ですか」
玖音が体勢を立て直す。
女の腕を掴み直し、深く腰を落とした。
そのまま、少しずつこちらへ引き戻してくる。
女は地面へ爪を立て、笠を落とし、最後には店の幟にまでしがみついた。
「ひっ、や、やめてくださいまし!」
幟が大きく傾く。
「ひぃっ!」
今度は店主が悲鳴を上げた。
私は何も言えなかった。
やがて、二人が私たちの前まで来る。
玖音が手を離す。
女は膝から崩れ、両手で顔を覆った。
乱れた髪の隙間から、その顔が見えた。
紅を引いた唇。
やはり、水蓮だ。
髪だけが、私の記憶と違っている。
水蓮は指の隙間から、恐る恐る玖音を見た。
そして、私を見る。
途端に、その体から力が抜けた。
「あ……」
両手が地面に落ちる。
そのまま、深く頭を下げた。
平伏だった。
「申し訳……ございませぬ、姫様」
それが、水蓮の第一声だった。
「どうか、お手打ちならば、この場でお下しくださいまし。ああ……ただし、腹を裂くのだけはご容赦を。あれは息絶えるまでが長く、苦しみも甚だしいと聞きますゆえ。どうせこの身を断たれるのでしたら、意識など残らぬよう、頭の骨より奥、髄も魂もまとめて一太刀にしていただければ、それが最も慈悲深いかと存じます」
時弦の眉が、ぴくりと寄った。
「……水蓮」
「はい」
「少し黙ろうか」
「はい」
そこへ、店主が湯気の立つ椀を運んできた。
倒れかけた幟を横目に、明らかに腰が引けている。
「お、お茶をもう一つ、で……」
「そちらへ」
時弦が示したのは、空いたままの腰掛けだった。
水蓮は、まだ地面にいる。
「水蓮、どうか顔を上げてください」
「いえ、姫様のお慈悲を賜るまでは」
「賜りません。斬りませんから」
「では、末代までの不忠として」
「不忠でもありません」
腕を引く。
動かない。
玖音が反対側へ回った。
その気配だけで、水蓮の背が跳ねた。
「ひっ」
そして、私の衣の裾を掴んだ。
「お待ちを、姫様。そちらは、そちらの方は……」
「玖音です」
「存じております。存じておりますとも。ですからこそ……」
「ですからこそ、何ですか」
水蓮が口を開く。
けれど、声にはならなかった。
顔だけが、玖音へ向いている。
その目が一度伏せられ、それきり上がらなかった。
「水蓮?」
「……何でもございませぬ」
裾が千切れそうなほど、強く握りしめられる。
玖音が水蓮の肩へ手をかけた。
「ひぃっ!」
水蓮は私の裾を両手で掴み、その場へ伏せるように身を丸める。
「水蓮、座るだけです!」
「な、なりませぬ!」
「何がですか!」
「そちらへ参れば、この方のお近くではございませぬか!」
「隣ではありません!」
玖音が片方の肩を持ち上げる。
私は反対側から腕を取った。
「姫様、お待ちを、お待ちくださいまし!」
草履が土を削る。
引き起こせば腰を落とし、押せば私の衣へしがみつく。
「水蓮!」
「申し訳ございませぬっ!」
「謝るくらいなら力を抜いてください!」
「それは出来ませぬ!」
「なぜですか!」
返事はない。
ただ、全力で抵抗された。
ずずっ。
隣で時弦だけが、我関せずと茶をすすっている。
玖音が肩を支え、私が腕を引き、一歩ずつ、どうにか腰掛けまで連れていった。
それでも腰を浮かせようとする水蓮を、二人がかりで押さえて座らせる。
「はぁ……」
気づけば、私の額には汗が滲んでいた。
水蓮は座ってなお身を縮め、玖音から最も遠い端へ寄っている。
玖音は何も言わず、いつもの位置へ戻った。
ああ。
無事だった。
こうして再会できたことは、本当に嬉しい。
嬉しいのだけれど。
私の記憶にある凛とした水蓮の姿は、どこかへ消え失せていた。
とても面倒な人が来てしまった。
知っているはずなのに、私の知らない顔を見たような。
それが、水蓮と再会した私の、最初の感想だった。




