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宵星の巫女―鬼封神楽―  作者: いろはにぽてと
4章 前編:桜唄編
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74話 甘い記憶と、風の声

時弦の口調がやや、砕けた風に変更になります。


伏見を離れてから、どれほど来ただろう。


来る時は郡司様に急かされるまま歩き通しで、街道の脇に茶屋があっても目を向ける余裕さえなかった。今こうして馬の背に揺られていられるのは、帰りにと三頭を貸していただいたからだ。同じ道のはずなのに、見えるものがまるで違う。


伏見で見たものを思い返せば、今でも胸の奥が締めつけられる。怪我人の呻き声。焼け焦げた町の匂い。失われた、多くの命。


それなのに、頬を撫でていく風は拍子抜けするほど静かで、心地よかった。


木々の葉が、さらさらと鳴る。


ぐぅうううう。


その音を引き裂いて、腹の虫が鳴いた。馬の足音にも風にも紛れない、堂々たる音だった。振り返ると、玖音が腹の辺りを押さえたまま、何事もなかったように前を向いている。


「……玖音?」


呼びかけると、ようやくこちらを見た。その目が、ちらちらと泳いでいる。


「お腹、空いたの?」


「……はい」


隣で馬を進めていた時弦が、小さく息を吐いた。


「そういえば、伏見を出てからまともに食べていなかったね」


そう言って懐から小袋を取り出し、指先で振る。思っていたよりも、ずっと軽い音がした。


「この先に団子屋がある。郡司殿から頂いた銭がまだ少しあるから、そこで休んでいこうか」


「よろしいのですか?」


玖音の顔が、目に見えて明るくなる。


「うん。ただし、一人一つだよ」


「……一つ」


喜びが、わずかにしぼんだ。


私は思わず時弦を見る。


「一つだけなのですか?」


「一つだけ」


「二つでは、いけませんか」


「だめ」


ぴしゃりと言われた。


「この先、いつ銭が手に入るか分からないからね」


私は口を閉じた。


団子が一つでいくらなのかも、この小袋で何日暮らせるのかも、私は知らない。厳しいのは時弦ではなく、たぶん、私たちの懐のほうだった。


茶屋の前で馬を降り、軒先に腰を下ろす。


こうして街道の途中で休むのは、初めてだった。館にいた頃も里へ抜け出しはしたけれど、いつも人目を避けていた。茶屋へ堂々と腰を下ろすことなど、一度もない。


炊いた米の匂い。火のはぜる音。草履が土を擦る音。どれも珍しくて、つい辺りを見回してしまう。


やがて、笹の葉に包まれたものが運ばれてきた。


「お待たせしました」


目の前に置かれたそれを見て、私は瞬きをする。


「……大きい」


玖音も同じ顔をしていた。


団子と聞いていたから、串に刺さった小さなものを思い浮かべていた。笹に包まれていたのは、私の拳ほどもある餅だった。


「この辺りでは、これを団子と申しますのや」


茶屋の女が、私たちの顔を見て笑う。


なるほど。


一人一つ。


ようやく、時弦の言葉の意味がわかった。


辺りへ目を走らせる。箸がない。


玖音も同じことをしていたらしく、腰を浮かせて女を呼ぼうとした。


「いりません」


時弦だった。


「このまま、こう」


言うより早く笹を開き、餅を持ち上げ、そのままかぶりついた。


餅が、伸びた。


時弦の口と、掌に残った半分との間で、白いものが細く、長く引かれていく。


伸びて。


さらに伸びて。


顎を引いて、ようやく噛み切れた。


私と玖音は、しばらく動けなかった。


作法にあれほど厳しい人が、である。


時弦は何食わぬ顔で咀嚼し、飲み込んでから、こちらを見た。


「街道の物は、こう食べるものだよ」


「……そういうものなのですか」


「そういうもの」


玖音の目が、みるみる輝いた。


「いただきます」


笹を開き、大きく口を開けて餅にかぶりつく。


私も自分の笹を開いた。


まだ温かい。笹の香りが鼻をくすぐる。


端をかじる。


「……甘い」


中には小豆の餡が入っていた。強すぎない甘さが、米の味と一緒にゆっくりと広がっていく。


隣では玖音が幸せそうに餅を頬張り、その向こうでは時弦が小言を言っていた。


「もう少しゆっくり食べなさい。喉に詰まらせますよ」


「はい」


「返事をしながら食べない」


「……んむ、むぐ」


言っているそばから、玖音が拳で胸を叩き始めた。


「あれほど言ったのに」


時弦が差し出した茶を、玖音は一息で飲み干す。それでもまだ、拳は同じ場所を叩いていた。


「ごほっ……面目ない」


その拳が置かれた場所を、私は目で追っていた。


――菜垂。胸を張りなさい。


耳の奥で、覚えのある声が重なった。


厳しくて、口うるさくて。それでも、いつも私を見ていてくれた人。


母上。


まだ私が幼く、母上と共に館で暮らしていた頃。毎日のように作法を教えられていた。座り方。歩き方。箸の持ち方。言葉遣い。幼い私には、そのすべてが窮屈で仕方がなかった。


『菜垂。そのようなことでは、嫁ぎ先で困りますよ』


母上に姿勢を正され、私は頬を膨らませた。


『こんなことばかりするのなら、お嫁になんて行きたくないっ!』


足が痺れ、もう嫌だとその場に倒れ込む。


叱られると思った。


けれど母上は困ったように笑い、私の前に膝をついて目線を合わせてくれた。


『ふふ。でも、あなたはきっと、いつか素敵な殿方と出会いますよ』


『知識も作法も、嫌いです』


『そうね』


『……母上も?』


母上は辺りを見回すと、内緒話をするように耳元へ顔を寄せた。


『私だって、面倒だと思うことはありますよ』


『えっ』


そんなことを言う人だとは思っていなかった。


『では、どうして覚えなければならないのですか?』


母上は少し考えてから、悪戯っぽく笑った。


『好きな人に、褒めてもらうためよ』


『……好きな人に?』


『ええ』


母上の頬は、少しだけ赤かった。


それ以上は教えてくれなかった。ただ、その顔がいつもの母上とは違って見えて、妙に嬉しかった。


好きな人に、褒めてもらうため。


あの言葉の意味が、今なら少しだけわかる気がする。


誰かを特別に思い、その人へ心を寄せるということ。


作法とは、形のことではなかったのだ。


胸を張るのも、言葉を選ぶのも、目の前にいる人を大切に思っているという、声に出さない伝え方だった。母上はそれを、窮屈だと泣いて転がる私へ、何年もかけて教えていた。


――母上。


もう、褒めてはもらえない。


父上も、いない。


あの館も、里も、もうない。


「……姫様?」


声がして、我に返った。


「どうかなさいましたか?」


「……ううん」


慌てて顔を背けた。目の奥が熱い。誰にも気づかれないよう、袖でそっと目元を拭う。


伏せた視界の端で、玖音の手が動いた。何も言わないまま、茶の椀が私の方へ寄せられる。


反対側では、衣の擦れる音がした。顔を上げなくても分かる。時弦が、街道の向こうへ目を向けたのだ。


二人とも、気づいている。


気づいていて、何も聞かない。


それが、こんなにありがたいとは思わなかった。


私は袖を目元へ当てたまま、しばらく動かずにいた。


紛らわせるものは何もなく、ただ、さらさらと木々が鳴っているだけだった。


伏見では、たくさんの人が傷つき、多くのものを失った。


それなのに。


風はこんなにも穏やかで。餅は甘くて。私の隣には、玖音と時弦がいる。


私は袖を下ろした。


それから、膝を揃えた。


背筋を正し、笹を両手で持ち直す。残りの餅を、一口だけ、ゆっくりと口へ運んだ。


誰に見せるためでもない。ただ、そうしたかった。


隣で、玖音がこちらを見た。


何も言わない。けれど少しして、玖音も慌てて背筋を伸ばした。笹の持ち方まで真似ようとして、指へ餡をつけている。


「……玖音」


「はい」


「そこまでしなくても、よいのですよ」


玖音は餡のついた指を持て余したまま、それでも真似るのをやめなかった。


私は空を見上げる。


雲ひとつない空が、どこまでも広がっていた。


竜珠のことも。鬼のことも。これから何が待っているのかも、まだわからない。


それでも。


母上から受け取ったものは、私の中にある。作法も、言葉も、あの日の内緒話も。誰にも奪えなかった。


守られてばかりだった。だからこそ、次は私が守る側になりたい。


隣にいるこの二人を。


最後の一口を、ゆっくりと飲み込む。


(母上、どうか……見ていてください)


小豆の優しい甘さは、しばらく口の中に残っていた。


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