73話 生きるかぎり、どこまでも
「儂に届いた文のうちの一通だ。だが、これだけはどうも、儂宛てではないようでな」
私は顔を上げた。
「母から……?」
宗近様が、古びた文を差し出す。
どうやら母は生前、刀の依頼などで、宗近様と何度か文を交わしていたらしい。
「届いた時は、なぜ儂にと首を傾げたものだ。おそらく、この時のためだったのだろう」
宗近様は文から目を逸らした。
「其方が読むとよい」
私は震える指でそれを受け取り、ゆっくりと広げる。
そこには、私の知らなかった話が記されていた。
――簡単に言ってしまえば、父への愚痴だった。
私が生まれた時。
父、八国は、娘の名にほとんど関心を示さなかったという。
ただ一言。
「強い名を与えよ」
そう告げただけだったらしい。
いかにも、父らしい。
そう思いながら読み進めていた、その時。
ある名を見つけ、私の指が止まった。
「……晴明?」
思わず声に出していた。
そこに記されていたのは、私の知らなかった晴明との縁だった。
当時、晴明は母の家に居着いていたという。父が名付けに興味を示さなかったため、代わりに私の名を考えることになったらしい。
晴明は、まだ赤子だった私を抱き上げた。
けれど私は、とにかくよく泣く子だったという。
泣いて。
泣いて。
しまいには、鼻水まで垂らして。
困り果てた晴明は、そんな私を見つめて、こう言ったのだそうだ。
「ハナタレ」
「…………」
私はゆっくりと文から顔を上げた。
「私の名の由来……ハナタレ、なのですか」
沈黙が落ちた。
そして――
「ふっ」
最初に吹き出したのは、宗近様だった。
玖音は無表情のまま、即座に口元を押さえる。けれど堪えきれないように、肩が震え始めた。
時弦は露骨に顔を逸らしている。耳の先が、わずかに赤い。
しまいには、ルカまで。
「フッ」
小馬鹿にするように、鼻を鳴らした。
「ルカまで!?」
「姫様らしい」
玖音が言った。
「どこがですか!」
顔が熱い。
けれど、気付けば皆が笑っていた。
焼け落ちた伏見で。
多くのものを失った、そのあとで。
久しぶりに聞く、何でもない笑い声だった。
文によれば、母はその呼び名をいたく気に入ったらしい。
その音だけを残し、別の意味を込めて、私に菜垂という名を与えた。
私はずっと、母からもらった名だと思っていた。
それは、間違いではない。
けれど、それだけでもなかった。
私の知らないところで。
晴明もまた、私の名に関わっていた。
私は、そっと自分の手の甲へ目を落とした。
竜珠が朝の光を受け、淡く輝いている。その奥には、かすかな熱が宿っていた。
まるで光の向こうから、晴明がこちらを覗いているような気がした。
突然現れた晴明が、なぜ私にこの力を与えたのか。
ずっと疑問だった。
与えるのなら、玖音にすべきだったのではないかと。
けれど晴明にとって私は、あの時、初めて出会った相手ではなかったのだ。
私が晴明を知らなかっただけで。
晴明は、生まれた時から私を知っていた。
◇
私たちは、宗近様に別れを告げた。
「達者でな」
宗近様は、それだけを言った。
郡司様から譲り受けた馬にまたがり、焼け落ちた伏見を発つ。
けれど、少し進んだところで、私は手綱を引いた。
瓦礫を運ぶ兵たち。
怪我人に肩を貸す者。
崩れた家から、まだ使えそうな木材を運び出す者。
皆が、それぞれの役目を見つけ、動き始めていた。
「……本当に、これでよいのでしょうか」
私の呟きに、時弦がこちらを見た。
「ここに残って、もう少し手を貸した方が……」
時弦は何も答えず、しばらく伏見を見つめていた。
やがて、静かに口を開く。
「伏見のことは、ここで生きる者たちに任せるのです」
「ですが……」
その時、鍛冶場の方から槌の音が響いた。
かん、かん、かん。
いつまでも続き、どこまでも響いていくような音だった。
もう、刀を打つ音ではない。
人々が再び暮らしていくための音だった。
「伏見を立て直すのは、私たちではありません」
時弦は、働く人々を見つめたまま言った。
「彼らを信じましょう」
「……はい」
私は、もう一度だけ伏見へ目を向けた。
宗近様は鍛冶場の前に立ち、こちらを見送っていた。
その向こうでは、兵も、里の人々も働いている。
壊れてしまったものは多い。
失われたものは、もう戻らない。
それでも。
ここで生きる人々は、自らの手で、すでに歩き始めていた。
私は伏見へ小さく頭を下げ、今度こそ前を向いた。
手綱を握り直す。
背後で、再び槌の音が響いた。
その音に送り出されるように。
私たちは、伏見をあとにした。
母と晴明から授かった、この名とともに。
生きるかぎり、どこまでも。
――第三章 終。
ここまでお読みくださり、誠にありがとうございます。
玖音と菜垂、それぞれの物語をより丁寧に描くため、作品の構成を見直すことにいたしました。
本編『宵星の巫女 ―鬼封神楽―』は、今後もこの作品ページで連載を続けます。それに伴い、既掲載分を順次改稿し、全編を菜垂視点に統一いたします。
改稿期間中は各話の内容や並び順を変更するため、現在お読みのページが別の話に差し替わる場合がございます。あらかじめご了承ください。
また、現在掲載している内容をもとに、玖音視点へ統一して章構成を整理した『宵星の巫女 外伝 ―鬼祓剣譚―』を、新たに掲載する予定です。外伝の公開時期は未定です。
本編の改稿作業に専念するため、一週間から二週間ほどお休みをいただきます。物語の大筋に変更はありませんので、これまでお読みくださった方は、改稿部分を読み直したり、外伝を読んだりしなくても、第四章からそのままお楽しみいただけます。
引き続き『宵星の巫女』をよろしくお願いいたします。




