72話 帰るべき場所へ
質屋の前まで来ると、玖音が足を止めた。
「……残っています」
以前とほとんど変わらない店構えが、そこにあった。
「ここは被害が少なかったのですね」
宗近様の鍛冶場といい、不思議なものだ。
私たちと縁のあった場所は、いくつも残っていた。
偶然だとは、どうしても思えなかった。
暖簾をくぐる。
「ごめんください」
奥から出てきたのは、以前と同じ店主だった。
小太りで、相変わらず裕福そうな衣を着ている。
「以前、こちらで買い取っていただいた衣を、買い戻したいのです」
「ああ。あれか」
店主は玖音の顔を覚えていたらしい。
「ちょっと待ってな」
棚の奥から、厳重に閉じられた木箱を取り出した。
蓋を開けると、畳紙に包まれた衣が、あの日のまま収められていた。
だが、告げられた金額を聞いて、私は耳を疑った。
以前、この衣を手放したときに受け取った額の、十分の一ほどだった。
「……それだけでよいのですか?」
「ああ。今は、それがこの衣の値だ」
あまりにも安すぎる。
宗近様が、何か脅しでもしたのではないか。
そう疑ったが、店主は鼻を鳴らした。
「勘違いすんな。物の値なんざ、欲しがる奴がいてこそだ」
店主は店内を見回した。
「だが今、こんな衣を買うような貴族なんざいやしねぇ。みんな逃げちまったからな」
棚には、以前よりも多くの品が積まれている。
「残ってんのは、食うにも困ってる奴と盗人ばっかりだ。景気も最悪だよ」
店主は苦々しそうに笑った。
「かといって、他の里へ商売に行こうにも、道中で荷ごと身ぐるみを剥がされかねねぇ」
そして、ちらりと時弦へ目を向けた。
「本当なら、もっと値のつくうちに他の里の商人へ売るつもりだったんだがな。そこの薬師殿に、少し待ってくれと頼まれていたんだ」
「時弦が……?」
振り返ると、時弦は何食わぬ顔で目を逸らした。
「いずれ、あんたたちが買い戻しに来るからとな。だが、待っている間にこの有様だ。貴族は逃げ、衣の値も落ちちまった」
「では、この衣が今日まで残っていたのは、私たちのために……」
「俺が勝手に待っただけだ。商いで出した損まで、客に負わせる気はねぇよ」
「ですが、なぜ私たちにそれを話すのですか。黙って以前と同じ額を求めれば……」
店主の眉が、ぴくりと動いた。
「そんなこたぁ、分かってんだよ。こっちだって、腹が立つほど惜しいんだ」
吐き捨てるように言う。
「だがな、一度でも人を騙したとなりゃ終いだ。まして姫さんに法外な値を吹っかけたなんて広まってみろ。誰もこの店じゃ買わなくなる」
店主は腕を組み、ふんと鼻を鳴らした。
「商いってのはな、一度きりじゃねぇんだよ」
「……」
店主は少しだけ目を逸らした。
「まあ……この店を守ってくれた恩人に、そんな真似はできねぇってのもある」
待つと決めたのは店主だったのかもしれない。
それでも、時弦が頼まなければ、衣はまだ値のあるうちに売れていたはずだ。
こちらに何の責任もないとは、私には思えなかった。
私は、衣を手放したときに受け取ったのと同じ額の金を、その場へ置いた。
「おい。だから、そんなにはいらねぇ」
「置いていきます」
木箱から衣を受け取り、両腕で抱きしめる。
母の匂いはとうに消えていたが、それでも布地の重みだけは、あの頃と変わらなかった。
「私たちのために、今日まで残してくださったのでしょう。それに、母上の形見をこのような値で買い戻しては、あの世の母上に顔向けできません」
「……」
「店を立て直すためにお使いください。それでも余るようでしたら、困っている方のために」
店主が何かを言う前に、私は頭を下げた。
「ありがとうございました」
そして私たちは足早に店を出て、再び宗近様の鍛冶場へ向かった。
先ほど預けたままにしていた物を受け取り、伏見を発つためだ。
鍛冶場まで戻ると、軒先には数頭の馬が繋がれていた。
先に宇治へ戻った郡司様が、私たちのために残してくださったものだ。
馬たちは、何事もなかったかのように静かに草を食んでいる。
焼け落ちた伏見の中で、その姿だけが妙に穏やかに見えた。
宗近様は、私たちの姿を見ると、先ほどの包みを持って鍛冶場から出てきた。
「戻ったか」
「はい」
時弦が受け取った包みを開く。
中に入っていたのは、奇妙な道具だった。
細い棒のようなものが、何十本も並んでいる。
長さは、指をいっぱいに広げたほど。
形だけを見れば、小さな朴刀にも見えた。
しかも、それぞれの先には刃が付いている。
「これは……なんでしょう」
私が尋ねると、宗近様は時弦を見た。
「治療に使う道具だそうだ。でなければ作りはせん」
「治療に?」
何に使うのか、私には想像もつかなかった。
なぜ治療に刃物が必要なのかも。
時弦は一本を手に取り、しばらく眺めたあと、自らの懐へ手を入れた。
取り出したものを見て、私は目を丸くする。
平らに整えられた金だった。
それも、庶民が簡単に持てるようなものではない。
「釣りはいりません。これでお願いします」
「時弦。あなた、どこでそのようなものを……」
すると時弦は、さも当然のように答えた。
「山科のために使おうと蓄えていたのですが、結局、その機会もありませんでしたね」
そして、私を見る。
「もともと、それなりの稼ぎはあったのですよ。なんせ、私は城お抱えの薬師でしたから」
「……そうでしたね」
お茶ばかり飲みに来ていたので、すっかり忘れていた。
けれど、質屋の店主が話していたことを思い出し、別の疑問が浮かんだ。
時弦は、いずれ私たちが衣を買い戻しに来ると、初めから分かっていた。
それはつまり、伏見へ来たときから、ここで何が待っているのかを知っていたということではないだろうか。
「ということは、時弦まで知っていたのですか」
「何をでしょう」
「母上が、宗近様に刀を頼んでいたことを……」
時弦は、わずかに目を細めた。
「でなければ、伏見まで来てはいません」
あまりにもあっさりと認められ、言葉を失う。
「では、衣を売ったあの日から、いずれ買い戻せると分かっていたのですか」
「ええ。姫様がご自分で手放すと決めたものです。私が止めるつもりはありませんでした」
「ですが、失わせるつもりもなかったと……?」
「ええ。ですから、店主に待つよう頼んだのです」
「……先に教えてください」
「それでは、姫様がご自分で決断した意味がなくなるでしょう」
宗近様が小さく笑った。
やがて、その目が玖音の持つ白銀の刀へと向く。
「儂はもう、刀を打たん」
「……なぜですか?」
「壊れたもんが山ほどあるでな」
宗近様は鍛冶場の奥へ目を向けた。
「今はそちらの方が、儂を必要としておる」
つられて奥を覗き込む。
弟子の一人が、黙々と槌を振るっていた。
打っているのは刀ではない。
鍋だった。
別の弟子の傍らには、曲がった鍬や、壊れた釜が積まれている。
人を斬るための鉄ではなく。
人が生きていくための鉄だった。
宗近様の顔には、憑き物が落ちたような、軽やかな笑みが浮かんでいた。
「もう行くか」
「はい」
私は頭を下げた。
「お世話になりました」
「うむ。こちらこそ世話になった……」
私は馬の手綱を取った。
いよいよ伏見ともお別れだ。
そう思った、その時だった。
「そうだ。姫君、ここでしばし待たれよ」
宗近様が何かを思い出したように、鍛冶場の奥へ足早に向かう。
「……なんでしょう?」
しばらくして戻ってきた宗近様の手には、一枚の文があった。




