71話 母の頼み
ようやく、人の声よりも静けさの方が多くなっていた。
死者は、指で数える程度だった。
けれど、怪我を負った者は数知れない。
朝日が、焼け落ちた伏見を照らしていた。
黒く炭化した梁の隙間から、白い煙がまだ細く立ちのぼっている。
昨夜まで炎だったものが、今はただの灰と成り果てて、風が吹くたびに舞い上がっては消えた。
亡くなった者たちを集め、廃材を寄せ集めた篝火の前で、皆が手を合わせる。
泣いている者がいた。
名前を呼び続ける者もいた。
その声は、悲鳴でも慟哭でもなく、ただ静かだった。
もう、叫ぶだけの力さえ残っていないのかもしれない。
なのに。
私は、その人たちのことよりも。
玖音が屠った、あの雷馬のことばかりを考えていた。
あれほど恐ろしく、私たちを苦しめた鬼。
それなのに、胸の奥にはぽっかりと穴が空いている。
神威神楽で、あの鬼の記憶を深く覗きすぎたからだろうか。
まるで。
私の人生の一部まで、終わってしまったようだった。
悼むべき相手を、私は間違えているのかもしれない。
そう分かっていても、この虚ろさだけはどうしても拭えなかった。
◇
伏見へ来た日に、最初の会合で出会った壮官様も、深手を負いながら一命を取り留めていた。
宗近様の友人であると知ったのは、すべてが終わった後だった。
壮官様の親族が言うには、重傷を負った壮官様を助けた者がいたらしい。
緑色の髪をした、凛とした女性だったという。
傷を診て。
薬を使い。
その場でできる限りの処置をして、いつの間にか姿を消したらしい。
私は時弦を見た。
「時弦は、知っているのですよね」
「ええ」
「誰ですか?」
「後で、と前にも申し上げましたが」
時弦は、そこで言葉を止めた。
しばらく黙ったあと、僅かに眉を寄せる。
「……気が変わりました」
「はい?」
「あの者は、私が姫様に名を語るのを待っているのでしょう」
「では、教えてください」
「嫌です」
「なぜですか?」
時弦は、あちらこちらに横たわる怪我人たちへ目を向けた。
「これだけの患者を、私は一人で診ていたのですよ」
「……はい」
「それなのに、姿を見せない」
声は穏やかだった。
けれど、ほんの少しだけ苛立っている。
「私から姫様に名を伝えて欲しいのでしょうが、癪です」
「……」
「私からは名を申しません」
「ですが」
「じきにあの者が観念すれば、自ら姿を現しますよ」
妙にきっぱりとしていた。
どうやら、本当に教えるつもりはないらしい。
私は諦めて、それ以上問いただすのをやめた。
◇
玖音たちを引き連れ、宗近様の鍛冶場を訪ねた。
「こちらを」
刀の代金として用意していた金を差し出す。
だが、宗近様は受け取らなかった。
「既に亡き櫛菜様から頂いておる」
その一点張りだった。
母が私のために刀を作らせたなど、すぐには信じられなかった。
「……では、なぜ最初から渡してくださらなかったのですか?」
宗近様は少し黙った。
「姫君だけならば、渡しておったかもしれんな」
「私だけなら?」
「だが、あの刀を持つのは其方ではない」
その目が、玖音へ向けられる。
玖音が僅かに背筋を伸ばした。
「刀というものは、持つ者によって人を生かしもすれば、殺しもする」
宗近様は静かに言った。
「故に見ておった。姫君がどのような者か。そして、その従者が、どのような者かをな」
「……」
「儂が渡してもよいと思える者でなければ、あの刀は渡さんつもりだった」
私は玖音を見る。
玖音もまた、私を見ていた。
言葉はなかった。
けれど、その視線だけで、宗近様が何を見極めようとしていたのかが分かるような気がした。
「では……」
もう一度、刀へ目を落とす。
「本当に、母が……?」
それでも、信じ難い話だった。
私がまだ幼かった頃。
母は宗近様に、いつの日か空から白銀の石が落ちてくるから、それを刀にしてほしいと頼んだのだという。
母は占星術にも通じていたから、何かしら天の兆しを読み取っていたのかもしれない。
「儂も初めは、戯れ言だと思うておった」
宗近様が苦笑した。
「だが、金まで届いてしもうてな。いつ落ちるとも知れぬ石を待つ羽目になった」
「母が亡くなったあとも、ずっと?」
そう尋ねると、宗近様の顔が僅かに固まった。
「……そうだとも」
口を結び、惚けるように目を逸らす。
初めて会った時。
母が亡くなったと聞いた宗近様は、確かに驚いていたはずだ。
「もしや……刀を、私にお届けにならなかったことを、責められると思ったのですか?」
宗近様は答えなかった。
しばらく黙ったあと、玖音の持つ白銀の刀へ目を向ける。
「昔のことだ。儂も耄碌したのだろうな」
「……?」
「うむ。忘れておったのだ」
宗近様は、どこか自嘲するように笑った。
「刀は、振るう者がいてこそ刀だとな」
私は玖音の手にある刀を見る。
母から頼まれたからといって、ただ私へ渡せばよいものではなかった。
宗近様はずっと、この刀を託せる者を待っていたのかもしれない。
何より。
冗談のような母の言葉通り、空から白銀の石は落ちた。
そして今、その石から打たれた刀が玖音の手にある。
私はもう一度、金を差し出した。
だが宗近様は、黙ってそれを押し返した。
これ以上押し問答をしても、受け取ってはくれそうになかった。
「でしたら」
隣にいた時弦が言った。
「そのお金で、質に入れた衣を買い戻してはいかがですか」
「そうされるのがよろしい」
宗近様も頷いた。
そういえば、伏見へ来たばかりの頃。
路銀を得るため、母の形見である衣を質に入れていた。
ただ。
「質屋が、まだ残っているでしょうか」
この有り様だ。
店そのものが焼けていてもおかしくない。
宗近様は何かを思い出したように、鍛冶場の奥へ手を伸ばした。
「そうだ。時弦殿」
「はい」
「其方にも渡しておく物がある」
奥から持ってきたのは、一つの包みだった。
「少し遅れたが、何とか間に合った」
時弦は包みへ目を落としたあと、小さく頭を下げる。
「ありがとうございます。ただ、私たちはもう一度こちらへ戻ってきますので、後で受け取ります」
「そうか」
宗近様は鍛冶場の外へ目を向けた。
「里の中は荒れておるからな」
「ええ」
「ならば、旅立つ前に寄るとよろしい」
「そうさせていただきます」
私たちは宗近様に一度頭を下げ、鍛冶場をあとにした。




