69話 手は貸さぬ
私は、地下へ続く暗闇を見た。
崩れた井戸。
今にも倒れそうな古木。
助ける方法は、まだ何も思いつかない。
「菜垂」
ルカが私を見る。
いつもの笑みはなかった。
「僕じゃ無理なんだ」
「……ルカ」
「お願い」
ルカは井戸の奥を見た。
「助けてあげて」
私は頷いた。
「分かりました」
「姫様」
玖音が隣へ並ぶ。
「私も参ります」
「玖音……」
「姫様を、一人で行かせるつもりはありません」
少し迷い、頷いた。
「お願いします」
私たちは崩れかけた家屋へ入った。
井戸へ続く地下は暗い。
水と濡れた土。
焼け焦げた木の臭い。
時折、頭上から細かな砂が落ちてくる。
「聞こえますか!」
「……はい」
弱々しい声が返ってきた。
少し進むと、道が途切れていた。
崩れた木組みと土が複雑に折り重なり、人が通れる隙間はない。
その向こうに少年の姿が見える。
手は届かない。
「どうすれば……」
自分の衣が目に入った。
私は表着を外し、重ねていた袿も一枚ずつ脱いでいく。
「姫様、私の衣も」
玖音も、自らの衣に手をかける。
「いけません。その衣は、お母様の形見なのでしょう。どうか、そのままでいてください」
「しかし、長さが……」
「それに、自分の衣でなければ、うまく力を通せる気がしません」
私は脱いだ衣の袖と裾を結んでいった。
幾重もの衣が、一本の長い綱へと変わっていく。
「捨てるわけではありません」
最後の結び目を強く締める。
「この衣も、あの子も、一緒に取り戻します」
竜珠へ意識を集中させた。
繋いだ衣が、僅かに浮かび上がる。
だが、すぐに落ちた。
「……っ」
重い。
もう一度。
今度は木組みに引っかかる。
戻して、また浮かせた。
何度も失敗した。
それでも少しずつ、衣は暗闇の奥へ伸びていく。
やがて、先端の袖が少年の目の前へ届いた。
「掴んでください!」
少年が手を伸ばす。
届かない。
「もう少し!」
震える指が、ようやく袖を掴んだ。
「掴みました……!」
「絶対に離さないでください!」
私は玖音と共に衣を握った。
「引きます!」
二人で力を込める。
少年の身体が、少しずつ動き始めた。
木組みに引っかかるたび、浮揚の力で衣を持ち上げ、向きを変える。
「痛い……」
「ごめんなさい。もう少しです!」
その姿が、少しずつ近づいてくる。
あと少し。
その時だった。
みしり。
頭上から、低い音が響いた。
続いて――。
ばきっ。
「姫様……!」
玖音の顔色が変わる。
外から弟の叫び声が聞こえた。
「木が倒れる!」
凄まじい音が迫ってくる。
古木が、家屋へ向かって倒れ始めた。
逃げられない。
少年を置いていくこともできない。
私は衣を握ったまま、身を固くした。
地鳴りにも似た音が響く。
地面が大きく揺れる。
砂埃が地下へ吹き込んできた。
けれど――。
何も落ちてこない。
「……?」
恐る恐る顔を上げる。
大木が途中で止まっていた。
「赫鬼……?」
外へ続く隙間から、その姿が見えた。
朴刀を地面へ突き立てた赫鬼。
両手は使っていない。
真正面から落ちてきた大木を、その身体だけで受け止めている。
いや。
正確には――。
顔が、大木にめり込んでいた。
「…………」
玖音も言葉を失っている。
「赫鬼……?」
返事がない。
「し、死んだのですか!?」
沈黙。
その時、ちょうど朝日が昇った。
差し込んだ光が、大木を顔面で受け止める赫鬼の姿を照らし出す。
不気味なのに、どこか神々しい。
あまりにも妙な立ち姿だった。
「誰が死んだと言うた」
大木の向こうから、いつもと変わらぬ声が返ってきた。
「…………」
生きている。
「何を呆けておる」
顔を大木へ押しつけられたまま、赫鬼が言う。
「早うせんと、動いてしまうぞ」
「は、はい!」
私は玖音と共に、もう一度衣を引いた。
少年の腕が見える。
肩が出る。
「あと少しです!」
最後に強く引いた。
小さな身体が、木組みの間から抜け出す。
私は少年を抱き締めた。
「よかった……!」
温かい。
確かに息をしている。
「玖音、行きましょう!」
「はい!」
少年を抱え、急いで地下から這い出した。
「兄ちゃん!」
弟が泣きながら駆け寄ってくる。
私は兄を下ろした。
二人は互いに抱きつき、声を上げて泣いた。
救助が終わったのを確かめ、赫鬼が大木へそっと手を沿える。
次の瞬間、大木だったものが灰となり、崩れ落ちた。
炎はない。
これまでの赫鬼とは、どこか対照的だった。
これほど巨大なものを真正面から受けていたというのに、その身体には傷一つない。
私は隣の玖音を見る。
この鬼へ刃を届かせ、傷を負わせたということが、どれほどのことだったのか。
改めて思い知らされる。
「勘違いするなよ」
赫鬼の声がした。
「え?」
「儂は手など貸しておらぬ」
「ですが……」
どう見ても助けてもらっている。
赫鬼は鼻を鳴らした。
「ただ、その場におっただけじゃ」
「……そうですか」
私は兄弟を見る。
二人とも、生きている。
「ありがとう、赫鬼」
「ふん」
ただ、それだけ。
けれど、面の下から覗く口の端には、確かな微笑みが浮かんでいる。
赫鬼という鬼が、ほんの少しだけ、温かな存在に思えた。




