68話 母の教え
幾重にも重なる蹄の音が、夜の闇を震わせながら近づいてくる。
「……馬です」
玖音の声に、全身の血が凍りついた。
夜の向こうでは、無数の炎が揺れている。
「馬……? あの鬼が戻ってきたの……!?」
「いいえ、姫様。あれは――」
玖音が目を凝らした、その時だった。
背後で、酒壺が地面へ置かれる音がした。
「どれ。行くとするか」
赫鬼が立ち上がり、近づいてくる馬の群れを見据えていた。
その足が地面を蹴る。
巻き上がった砂煙が篝火を呑み込み、轟々と燃えていた炎が一息に掻き消された。
次の瞬間、赫鬼の姿が丘から消える。
斜面を一気に駆け下り、その勢いのまま跳び上がった。
黒煙を突き破り、鬼が伏見へ舞い落ちる。
着地と同時に朴刀を地面へ突き立てた。
轟音と共に大地が陥没し、土煙が高く舞い上がる。
赫鬼を囲むように現れたのは、松明を掲げた騎馬の一団だった。
先頭を駆る男には見覚えがある。
宇治の郡司殿だ。
薫の父上。
だが、それだけではない。
その後ろには、先日の会合に参列していた者たちの姿も見える。
宇治だけでなく、近隣の地からも兵が集まっていた。
考えてみれば、不思議なことではない。
鬼が現れた時には互いに知らせ、兵を出す。
そう取り決めたばかりなのだから。
騎兵たちは赫鬼を認めると、一斉に速度を落とした。
郡司様が片手を上げる。
兵たちは左右へ散開し、赫鬼を中心に取り囲んだ。
だが、弓も槍の穂先も、誰一人向けてはいない。
「赫鬼」
郡司様が馬上から問いかける。
「お前に刃を向けたくはない」
その声にあったのは、怒りよりも困惑だった。
「だが、分からぬ」
郡司様は焼け落ちた伏見を見渡す。
「なぜだ。なぜ、これほどまでに伏見が……」
赫鬼は何も答えない。
「宇治では、おとなしくしていたではないか!」
私と玖音は顔を見合わせた。
郡司様は、赫鬼が伏見を襲ったと思っている。
「誤解です、郡司様!」
私は玖音と共に丘を駆け下りた。
「赫鬼が伏見を襲ったのではありません」
「菜垂姫! では、この有様は一体……?」
「雷馬です」
私は、ここで起きたことを手短に伝えた。
新たに現れた三体の鬼。
雷馬との戦い。
そして、赫鬼が雷馬の進路を塞ぎ、私たちが戦うための道を作ってくれたことも。
「なに……赫鬼が姫を助けたと?」
「はい」
郡司様はすぐに手を上げた。
「囲みを解け!」
騎兵たちが一斉に退く。
郡司様は赫鬼へ頭を下げた。
「すまぬ、赫鬼。早合点であった」
赫鬼は答えず、酒壺に口をつけただけだった。
私は郡司様へ向き直る。
戦いは終わった。
けれど、伏見のあちこちから、今も助けを求める声が聞こえている。
「郡司様。どうか、お力を貸してください」
郡司様は馬から降り、私の前で片膝をついた。
「それは、姫様が仰られることではありません」
「郡司様……」
「民を救うことこそ、我らの務めにございます」
郡司様は立ち上がると、大きく息を吸った。
「兵どもよ!」
太い声が、朝を迎えた伏見へ響き渡る。
「悪しき鬼は去った!」
無数の松明が高く掲げられた。
「瓦礫に埋もれし者を救い出せ!」
「一人たりとも見落とすな!」
「おおおおおっ!」
郡司様が腕を振り下ろす。
騎兵たちは一斉に散った。
連なっていた松明の火が伏見の四方へ分かれ、焼け落ちた里を照らしていく。
私は、その光景を見つめていた。
かつて私は、赫鬼に理とは慈愛の心であると答えた。
それは母が私に教えた強さであって、私自身が見つけた答えではない。
なぜ慈愛が強さなのか。
私にも、まだ本当の意味は分からない。
けれど。
誰かを救おうと差し伸べられた手によって、消えかけた命が繋がっていく。
母が私に残してくれた慈愛の心が、人を強くするということだけは、間違いではないはずだ。
「菜垂!」
声に振り返る。
ルカが駆けてきた。
「ちょっと、困ったことになってる」
私と玖音は、その後を追った。
背後から、重い足音がついてくる。
振り返れば、赫鬼だった。
連れて行かれたのは、伏見の外れにある一軒の家だった。
その傍らには、一本の古木が大きく傾いていた。
以前から弱っていたのだろう。
朽ちた幹の半ばは雷によって黒く焼け、亀裂の奥では今も火が燻っている。
そして、その真下に家屋があった。
「人がいるのですか」
「うん」
ルカが家の奥を指す。
「地下の井戸が崩れてる」
兄弟が地下へ取り残され、弟だけは兵たちが救い出していた。
だが兄は、崩れた木組みのさらに奥。
子供一人が辛うじて通れるほどの穴の向こうに閉じ込められている。
「兄ちゃん……」
泥だらけの弟が、傾いた古木を何度も見上げていた。
私に気づくと、泣きながら衣へしがみつく。
「あの木……」
震える指が古木を指した。
「倒れたら、兄ちゃんがいるところまで全部沈んじゃう」
ぎしり。
古木から嫌な音が響く。
「お願い!」
衣を握る小さな手に力がこもった。
「兄ちゃんを助けて!」
私は赫鬼を見た。
「赫鬼」
「なんじゃ」
「あの木を、燃やして灰にできませんか? 玖音が斬ると、きっと衝撃が起こります」
赫鬼は古木を一瞥した。
「容易いな」
「では……」
「断る」
「ええ……?」
赫鬼は酒壺を地面へ置き、私を見る。
「確かに、貴様の言うておった理とやら。その意味は少し分かった」
伏見へ散った松明へ目を向ける。
「一つの力では届かぬ場所にも、力が繋がれば届く」
赫鬼は拳を握った。
「だが、それと慈愛が強さであるという話は別じゃ」
「蒼鬼は、拳一つで儂を打ち伏せた」
その声が低くなる。
「そこに慈愛などない」
「蒼鬼にも、慈愛の心があるからではないでしょうか」
「……くだらん」
赫鬼の声に、僅かな怒りが混じった。
「儂が鬼に落ちる前、誰も我ら兄弟を救おうとはせなんだ」
私を見る。
「なぜ、儂だけが救いの手を差し伸べる道理がある」
「でしたら、私たちだけで行きます」
赫鬼の目が細くなった。
「……何?」
「赫鬼が手を貸さないというのであれば、仕方ありません」
私は潰れかけた家を見た。
「私と玖音で、あの子を助けます」
「はい。姫様」
玖音が静かに頷く。
赫鬼はしばらく私を見つめていた。
「貴様は、慈愛と無謀を履き違えておる」
「そうかもしれません」
「貴様が死ねば、鬼神を殺せる者はいなくなるのだろう」
「……はい」
赫鬼は泣いている少年へ目を向けた。
「あのような矮小な存在のために、己の命を危険に晒す意味がどこにある」
「見捨てるべきだ」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「見捨てません」
「なぜだ」
「命の大きさも、数も関係ありません」
地下へ続く暗闇を見つめる。
「たった一つであっても、無意味に失われていい命などありません」
赫鬼の目が細くなった。
「ならば、証明してみせよ」
「え……?」
「貴様の慈愛で」
赫鬼は顎で家屋を示した。
「あの小僧を、救ってみせろ」




