67話 火が連なる先
「赫鬼」
声をかけると、赫鬼は酒壺から口を離した。
鬼の能面を縁取る赤毛が、夜風に揺れている。
上半身は剥き出しだが、下半身だけは丁寧に着飾っており、腰には太く捻じれた縄が巻かれていた。
鬼としては決して大柄ではなく、その背丈は成人した男とさほど変わらない。
それでも、座っているだけで周囲を圧するような威容があった。
赫鬼は目だけを動かし、私を見る。
隣に立つ玖音の肩が、僅かに震えた。
玖音は今も、赫鬼に強い恐怖を抱いている。
それでも私についてきてくれたことに、心の中で感謝した。
私は丘を上り、その少し手前で足を止めた。
「あなたが雷馬を押し留めてくれなければ、
私たちはあの馬へ近づくことすらできませんでした」
赫鬼は何も答えない。
「あなたの炎が、私たちへ道を繋いでくれました」
しばらくの沈黙の後、赫鬼は低く言った。
「……そのような顔で、儂を見るな」
「どのような顔でしょうか」
「儂を、貴様らの仲間と思っている顔じゃ」
「仲間であるかどうかは、私にもまだ分かりません」
私は燃え落ちた伏見へ目を向けた。
瓦礫の間を人々が走り、泣き声と助けを求める声が、夜の中に絶え間なく響いている。
「ですが、あなたが人々を救うための時間を作ってくれたことは事実です」
赫鬼は鼻を鳴らした。
「儂は貴様らを救ったのではない」
その声に、先ほどまでの荒々しさはなかった。
「あの鬼どもが、儂の縄張りである巨椋池を荒らし、魚まで獲れぬようにしたのが許せなんだ」
赫鬼は酒壺の縁を親指でなぞった。
「ただ、それだけにすぎぬ」
「それでも、助けられた命があります」
赫鬼の目が細くなる。
「鬼の行いに、勝手な意味を与えるな。貴様まで儂を猿彦と呼び、拝むつもりか」
「そのようなつもりはありません」
私は首を振った。
「起きたことを、なかったことにはしたくないだけです」
赫鬼はしばらく私を睨んでいた。
やがて視線を逸らし、燃え落ちた伏見を見渡す。
「鬼に背を預けるなど、愚か者のすることじゃ」
「はい」
「……道理を説かれたゆえ、今は誰一人喰ろうておらぬ」
赫鬼は酒壺を地面へ置いた。
「だが、これからもそうとは限らぬ」
「分かっています」
「ならば、なぜ儂に近づく」
「あなたが何を考えているのか、知りたいからです」
赫鬼は黙った。
傍らで燃えていた炎が、僅かに揺れる。
「神楽を舞いながら、あなたがあの馬と戦う姿を見ていました。
あなたなら、すぐに悟ったのではないですか。
あの馬は、あなたの炎だけでは倒せないと」
赫鬼の眉が動き、酒壺の口を掴む指に力がこもった。
私は言葉を続ける。
「それでも、あなたは諦めずに、あの馬を止めてくれました」
勝てないと分かっても、赫鬼は逃げなかった。
雷馬を倒すことはできなくとも、その進路を塞ぎ続けた。
その炎がなければ、雷馬はたちまち姿を消していただろう。
私はあの馬の心へ触れられず、玖音の刃も届かなかった。
「なぜ、そこまでしてくれたのですか」
赫鬼は答えなかった。
ただ、燃える炎を見つめている。
長い沈黙の後、その指先に小さな火が灯った。
「儂はこれまで、強さとは一つの巨大な力だと思っておった」
赫鬼は低く呟いた。
「すべてを焼き、すべてを屈服させる炎。何者にも消されぬ、ただ一つの火」
指先の炎が、傍らに落ちていた一本の薪へ移る。
小さな火は、乾いた木の表面を静かに這った。
「だが、儂の炎では、あの馬すら倒せなんだ」
その声には、隠しきれない苦さがあった。
「力をぶつけるだけでは届かぬ。蒼鬼にも、あの馬畜生にもな」
一本の薪に宿った火が、隣の薪へ燃え移る。
火は二つに分かれた。
けれど、初めの炎が消えることはなかった。
二つの炎は互いの熱を受け、さらに勢いを増していく。
「一本の薪に宿る火には、限りがある」
赫鬼は炎を見据えた。
「だが、別の薪へ火を渡せば、炎は途絶えぬ。
分けたからといって、初めの火が失われるわけでもない」
さらに別の薪へ火が移った。
一つだった炎は二つに、二つは三つとなり、赫鬼は火のついた薪をひとつずつ篝火へとくべた。
やがて周囲の瓦礫を照らすほどの火へ育っていく。
「儂一人の炎では、届かなかった」
赫鬼は自らの掌を見つめた。
「あの馬を止めたのは、儂の炎だけではない」
時弦が私に知恵を与え、赫鬼が雷馬の進路を塞いだ。
私がその心へ触れ、そして玖音が、魂と鬼の身体を切り離した。
誰か一人の力だけでは、雷馬を止めることはできなかった。
「一つの力では届かぬ場所へ、異なる力が繋がることで届いた」
赫鬼は炎へ手をかざした。
「儂が求めていた理とは、何者にも負けぬ一つの炎ではなかったのやもしれん」
燃える薪が音を立てて崩れた。
けれど、その隣では別の薪が燃え続けている。
「一つの火が消えようとも、別の火が残る。そして残った火が、また次へと繋がっていく」
その言葉は、私に聞かせるためのものではなかった。
赫鬼自身が、初めて見つけた答えを確かめているようだった。
「その繋がりが、力になる」
赫鬼は掌を閉じた。
指先に残っていた炎は消えたが、薪へ渡った火は燃え続けている。
「……それが、儂の求めていた理なのかもしれぬ」
私は赫鬼の横顔を見つめた。
そこには、いつもの傲慢さも怒りもない。
自らの敗北を認め、それでもなお先へ進もうとする者の顔があった。
「赫鬼」
「なんじゃ」
「あなたも、ずっと答えを探していたのですね」
赫鬼はすぐには答えなかった。
燃え続ける炎を見つめたまま、静かに酒壺を持ち上げる。
「答えを得たなどとは言っておらぬ」
「はい」
「今見えたものが、真であるかも分からぬ」
「成長されたのですね」
赫鬼は私を横目で見た。
「分かったような口を利くな、小娘」
怒鳴ることはなかった。
その声は低く、疲れていた。
私は燃えた伏見へ目を戻した。
まだ大勢の人が助けを待っている。
治療を続ける時弦のもとへ、次々と怪我人が運ばれていた。瓦礫を動かそうとしている者たちもいる。
けれど、あまりにも人手が足りない。
「赫鬼」
「……気安く、何度も名を呼ぶでない」
赫鬼は酒壺へ口をつけたまま、燃え落ちた伏見を見下ろした。
「鬼の手でも借りたいほど切羽詰まっておることくらい、見れば分かる」
「では、力を貸してください」
私は赫鬼へ手を差し出した。
「まだ、瓦礫の下に人がいます」
赫鬼の炎ならば、道を塞ぐ木材を焼き切ることができる。
夜の闇を照らし、助けを求める者を探すこともできる。
「私たちだけでは、間に合いません」
赫鬼は、差し出された私の手を見つめた。
「鬼である儂に、人を救えと言うのか」
「はい」
「あなたにしか救えない命があります」
赫鬼の目が僅かに揺れた。
私は隣にいる玖音へ顔を寄せ、そっと耳打ちした。
玖音は虚ろな目を僅かに見開いたが、すぐに私と並んで額を下げた。
「お願いします。どうか、あなたの力を貸してください」
「断る」
「……そうですか」
「儂は、貴様らの命令で動くつもりはない」
「そのようなつもりでは……」
「同じことじゃ」
赫鬼は顔を背け、再び酒壺へ口をつけた。
「儂の炎を、好きに使えると思うな」
「……分かりました」
これ以上、言葉を重ねても届かない。
少なくとも今は、赫鬼自身が選ばなければならない。
私は道を下り、瓦礫の方へ戻ろうとした。
その時だった。
遠くから、低く重い音が響いた。
地の底から押し寄せてくるような音だった。
一つではない。二つでもない。
幾重にも重なる蹄の音が、夜の闇を震わせながら近づいてくる。
私は足を止めた。
瓦礫の間を走っていた者たちも、次々と顔を上げる。
蹄の音は急速に大きくなり、地面に落ちていた小石が震え始めた。
赫鬼が酒壺を置いた。
先ほどまで酒壺を持っていたその手は、すでに朴刀の柄を握っている。
「……待ちわびておったぞ」
赫鬼は立ち上がった。
その身体から、赤い炎が静かに立ち昇る。
私は夜の向こうを振り返り、息を呑んだ。
地平を覆う闇が揺れている。
やがて月明かりの下へ、無数の影が姿を現した。
一頭ではない。
数えることすらできないほどの馬の群れが、地響きを伴いながら伏見へ押し寄せていた。




