66話 暗闇の中、光は絶えず
戦いは終わった。
けれど、終わっただけだった。
「……勝ったのですか」
誰かが呟いた。
その問いに答える者はいない。
焼け落ちた家々から、炎の爆ぜる音が聞こえる。
崩れた壁の下からは助けを求める声が上がり、失われた者の名を何度も呼び続ける声もあった。
「鬼は去りました」
玖音が静かに告げる。
「ただ、それだけです」
勝利を喜ぶ者はいなかった。
残されたのは、焼けた家と、砕けた道と、帰らぬ者たちだけだった。
私は少し離れた丘へ目を向けた。
そこは、伏見へ来てから宵冥が昼寝をしていた場所だった。
だが、今は宵冥の姿はない。
代わりに赫鬼が腰を下ろし、伏見へ来る前から背負っていたという大きな酒壺を抱えていた。
赫鬼は壺の口へ直接唇をつけ、黙ったまま酒を飲んでいる。
その傍らでは赤い炎が静かに燃えていた。
炎から立ちのぼる黒煙は風に流されることもなく、夜空へ向かって真っすぐ伸びている。
「ここに人がいる!」
瓦礫の向こうから、ルカの声が上がった。
「三人とも、まだ息があるよ!」
私は玖音と顔を見合わせ、声のする方へ急いだ。
崩れた家の下に、三人の人が折り重なるように倒れている。
一人は大人の男。
その下に、女と子供がいた。
「血は出ていますか!」
「うん。一人は、たくさん出てる!」
男の脇腹から流れた血が、衣を黒く染めていた。
このままでは、時弦のもとへ運ぶ前に命が尽きてしまう。
私は手をかざし、浮揚の力を呼び起こそうとした。
けれど、何の反応もない。
何度意識を集中させても、身体の奥にある力は動かなかった。
神威神楽によって、力を使い果たしてしまったのかもしれない。
「……ルカ、お願い。時弦のところまで急いで連れていって」
「姫様。まずは、私が瓦礫から引き出します」
玖音が男へ手を伸ばした。
だが、身体を屈めた途端、その顔が苦痛に歪んだ。
時弦にもう一度塗り薬をつけてもらったものの、傷はまだ癒えていない。
呼吸も浅かった。
「玖音。一人では無理です」
「ですが、姫様も……」
「二人で運びます」
私も男の身体へ腕を回した。
脇腹に鋭い痛みが走る。
刃や雷を直接受けた覚えはない。
それでも神威神楽によって身体の奥まで削られたのか、息をするだけでも胸が苦しかった。
男の身体を持ち上げると、内側から引き裂かれるような痛みが走る。
それでも、手を離すことはできない。
玖音と力を合わせ、男を瓦礫の下から引き出した。
続いて、女と子供も助け出す。
「僕が運ぶよ」
ルカの身体が淡い光に包まれた。
白い毛並みが波打ち、小さな身体が大きく伸びていく。
やがてルカは、三人を背に乗せられるほどの大きな白鹿へと姿を変えた。
私たちは一人ずつ、ルカの背へ乗せていった。
最後の一人を乗せ終えた時には、立っていることさえ難しくなっていた。
大きく伸びた角から細い枝が広がり、三人の身体を囲むように支える。
「お願い。時弦のところまで連れていって」
「分かった。すぐに戻るから」
ルカは三人を背負い、瓦礫を跳び越えた。
白い身体が暗闇を駆け抜け、瞬く間に遠ざかっていく。
玖音が胸を押さえながら、小さく息を吐いた。
「玖音。もう休んでください」
「まだ、助けを求める声が聞こえます」
「ですが、その身体では……」
「姫様も同じでしょう」
玖音はそれ以上何も言わず、再び瓦礫の方へ歩き出した。
私も、その後を追う。
今は負傷者を運ぶルカと、治療を続ける時弦だけが希望だった。
私たちは崩れた家の下から人を探し、瓦礫の向こうへ何度も呼びかけた。
返事があれば、その場所へ向かう。
返事がなくとも、僅かな物音を聞き逃さぬよう、瓦礫へ耳を寄せた。
どれほどの時が過ぎたのかは分からない。
やがて、ルカが私たちのもとへ戻ってきた。
「時弦が呼んでるよ」
「何かあったのですか」
「さっき運んだ人を見てほしいって」
私は玖音とともに、時弦が治療を続けている場所へ向かった。
燃え残った家の軒下に布が敷かれ、負傷者たちが横たえられている。
時弦はその中央に膝をつき、休むことなく手を動かしていた。
疲れているのは、私たちだけではない。
時弦の目の下には濃い疲労の色が浮かび、額には汗が滲んでいる。
血と薬草に汚れた指先も僅かに震えていた。
それでも、その手が止まることはなかった。
先ほどルカが運んだ三人のうち、最も傷の深い男が、時弦の前に横たえられていた。
男の脇腹には大きな傷があり、衣は血に染まり、顔からは色が失われている。
けれど、傷口には裂かれた布が固く巻かれ、その内側には、すり潰した薬草が詰められていた。
時弦は傷口へ伸ばしかけた手を止めた。
「これは……」
「どうしたのですか」
「すでに、手当てが施されています」
時弦は慎重に布を解いた。
布は傷口から流れる血を正確に押さえている。
詰められた薬草の量も、多すぎず、少なすぎない。
見た目こそ乱れていたが、命を繋ぐために必要な処置だけが、迷いなく施されていた。
「この手当てがなければ、ここへ運ばれる前に息絶えていたでしょう」
「誰が、この方を……」
時弦は周囲を見回した。
けれど、名乗り出る者はいない。
「分かりません。今は治療を優先します」
時弦は新たな薬草を選び、平らな石の上ですり潰した。
傷口を水で清め、薬草を当て、清潔な布を巻き直していく。
「次の方を」
時弦が手を差し出した。
「ですが、時弦。少し休まなければ……」
時弦は手を止めなかった。
血と薬草に汚れた手が、再び差し出される。
「運んでください。私のもとへ来た者は、死なせません」
その後も、負傷者は絶え間なく運ばれてきた。
次に運ばれてきた女の折れた脚には、細い板が添えられていた。
別の者の傷口にも、同じ薬草が詰められている。
息の浅い子供の口元には、薬を含ませた跡が残っていた。
どれも十分な治療ではない。
血を止め、折れた骨を動かぬよう固定し、時弦のもとへ届くまでの僅かな時間を稼ぐための処置だった。
けれど、その僅かな時間が、生と死を分けていた。
「この方にも……」
時弦が呟く。
布の結び方も、薬草の使い方も同じだった。
「すべて、同じ者が手当てをしたのでしょうか」
「おそらくは」
異なる場所から救い出された者たちに、同じ処置が施されている。
誰かが私たちより先に瓦礫の中を巡り、まだ息のある者を見つけていたのだ。
そして命を繋ぐための手当てだけを残し、次の負傷者を探しに向かった。
時弦は薬草を指先に取り、その香りを確かめた。
「これを使った者には、心当たりがあります」
「誰なのですか」
「それは、ひと段落してからお話ししましょう」
私は頷き、再び瓦礫のもとへ戻ろうとした。
その時、時弦が私たちを呼び止めた。
「姫様。玖音殿」
「どうしましたか」
「お二人とも、これ以上は身体が持ちません」
時弦の声にも、隠しきれない疲れが滲んでいた。
「ですが、まだ瓦礫の下には……」
「分かっています。だからこそ、私たちだけで続けるべきではありません」
時弦は丘の上へ目を向けた。
川辺に残っている者は少ない。
人々の多くは寺へ避難し、一度こちらへ戻った者たちも、自分や家族を守ることで精一杯だった。
「姫様と玖音殿だけではなく、あの者の力も借りましょう」
「あの者……?」
時弦が指し示した先を見る。
赫鬼は相変わらず、丘の上で黙って酒を飲んでいた。
その背中が、炎の向こうで大きく揺らめいている。
赫鬼の周囲に立ちのぼる鬼火は、焼け落ちた伏見を赤く照らしていた。
「赫鬼が、力を貸すでしょうか」
「分かりません」
時弦は血に汚れた手で、次の薬草を手に取った。
「ですが、今は一つでも多くの命を救うことを考えるべきです」
私は頷き、玖音とともに丘へ向かった。
丘へ近づくにつれ、人を焼き、すべてを奪うはずの炎が大きくなる。
けれど今の私には、それが暗闇の中に残された、絶えぬ希望の光のように見えた。




