65話 君のもとへ
「あの子は、私たちを狙っているのではありません」
玖音と時弦が、雷馬から私へ視線を移した。
「あの子は、本当の主を探しているのです」
「本当の主?」
玖音が眉を寄せる。
「はい。失った主を求めて、ずっと走り続けています」
雷が落ちた。
地平が削れ、砕けた大地が白銀の光に呑まれる。
「では、あれは我々と戦っているのではないと?」
時弦が問う。
「戦ってなどいません」
雷馬が身じろぎする。
それだけで、白銀の雷光が大地へ突き刺さった。
「私たちなど、見てもいないのです」
蹄が一歩、地を踏む。
それだけで大地が割れた。
亀裂は伏見を走り、巨椋池の岸を崩していく。
轟音とともに水が溢れ、池は形を変えた。
岸は消え、家々の残骸を呑み込んだ濁流が、雷馬のいる場所へ迫っている。
それでも、あの馬は水を見ていない。
私たちすら見ていない。
もう支配する者はいないのに、失った主を求めて暴れ続けている。
赫鬼が舌打ちした。
その音に応えるように、雷馬が嘶く。
朝日のような雷光が伏見の空を裂き、赫鬼の炎と衝突した。
地が揺れる。
私は震える腕で地面を押した。
立たなければ。
そう思うのに、身体が動かない。
時弦が雷馬を見据えたまま言った。
「今は、赫鬼が押し留めています」
その声には、いつもの余裕がなかった。
「ですが、次に動き出せば、もう誰の目にも追えない」
雷馬が前脚で地を掻く。
蹄の下で白銀の雷が弾けた。
「地平の果てまで大地を裂き、すべてを焼き尽くすまで、あれは止まらないでしょう」
時弦が静かに息を吐く。
「……これで、終わりかもしれません」
「時弦が、そんなことを言うのですか」
「勝ち筋が見えません。斬りかかれば、逃げられるだけです」
「なら、逃がさなければよいのでしょうか」
「姫様には、それが可能だと?」
「あの子次第です」
赫鬼でさえ、雷の直撃を受けて地に伏している。
私は時弦の手を握った。
「終わりにはしません」
声は震えていた。
けれど、言葉だけは折れなかった。
「そのために、私はここにいます」
神楽刀を握り直す。
もう一度、舞う。
この両手は、真に苦しむ者を救うためにあるはずだ。
今度は、もっと深く潜る。
神威神楽。
足元がふらつく。
身体が傾いた瞬間、玖音と時弦が両脇に立った。
「姫様、無理はなさらないでください」
「無理をしなければ、届きません」
「なら、倒れる前に言ってください」
「倒れてからでは駄目ですか」
「駄目です」
時弦が小さく息を吐いた。
「また倒れそうになったら、私が支えます」
私は頷き、神楽刀を掲げた。
鈴の音が鳴る。
光の速さで駆ける雷馬へ、意識を重ねる。
神威が雷の流れに触れ、その動きを鈍らせた。
胸を引き裂くような悲しみが流れ込んでくる。
愛された記憶。
失った痛み。
馬は、いなくなった主を探して走り続けた。
山を越え、野を駆け、脚が砕けても止まらなかった。
それでも、主は戻らなかった。
雷馬の脚が僅かに止まる。
そこへ、赫鬼が立ち上がった。
忌々しそうに雷馬を睨みつけると、赫鬼は瓢箪を傾けた。
だが、何も出てこない。
「ぐあぁっ……酒が切れた!」
赫鬼が瓢箪を地面へ叩きつける。
「ならば、炙るのも致し方なし!」
吐き捨てるように叫ぶと、朴刀を地面へ突き立てた。
轟音とともに炎が渦を巻く。
天へ昇った火柱が雷雲を焼き、雷馬の周囲を炎で囲んだ。
だが、白銀の雷が炎を押し返していく。
赫鬼はしばらくそれを睨んでいたが、やがて舌打ちした。
「……もう知らん!」
その場へどかりと腰を下ろした。
押し返されながらも、炎は雷馬の進路を塞いでいる。
雷馬の脚が、止まった。
この好機を逃してはならない。
私は神威神楽で、さらに深く潜る。
雷馬の意識へ、自らの意識を重ねた。
◇
気が付けば、草原に立っていた。
雲一つない青空。
白い馬が一頭、私を見つめている。
雷も狂気も纏っていない。
ただの美しい馬だった。
先ほどまで暴れていたことが信じられないほど、その姿は穏やかだった。
馬はゆっくりと歩み寄り、私へ頬を寄せた。
私はその額に触れた。
温かかった。
鬣を撫でると、馬は私の肩へ頭を乗せた。
小さく鳴く。
泣いているような声だった。
「ごめんなさい」
私は言った。
「あなたは、こんなにも良い子なのに」
涙が頬を伝った。
この子は大勢を殺した。
伏見を壊し、命を奪った。
もう贖うことはできない。
許されることもない。
それでも、この子の悲しみまで、なかったことにはできなかった。
「本当は、主に会いたかっただけなのでしょう」
馬は静かに目を細めた。
私はその額へ、自分の額を寄せた。
「もう、走らなくてよいのです」
馬の耳が僅かに動く。
「もう、探さなくてよいのです」
鬣を撫でながら、静かに告げる。
「……もう、休んでいいのです」
馬は長く息を吐いた。
意識が戻った時、私は雷馬へ手を伸ばしていた。
◇
玖音が刃を構えていた。
雷馬は動かない。
逃げることも、雷を放つこともなかった。
ただ、私だけを見ていた。
「玖音。あの子は、主がもう戻らないことを受け入れました」
雷馬の瞳から、狂気が消えている。
「もう、走ろうとはしていません」
「ならば、もう斬る必要はないのですか」
私は首を振った。
「あの子は、大勢の命を奪いました」
焼けた家。
砕けた道。
形を変えた巨椋池。
どれも、消すことのできない罪だった。
「このまま生かすことはできません」
「姫様は、それでも救いたいと?」
「はい」
私は雷馬を見つめた。
「殺すためではありません」
声が掠れる。
「あの子を、本当の主のもとへ送り届けてください」
玖音はしばらく黙っていた。
「分かりました」
玖音が一歩踏み出した。
雷馬は逃げなかった。
ただ、私だけを見ていた。
「玖音……」
「あの子を、眠らせてあげて」
静寂の中、玖音の声だけが響いた。
「鬼でありながら、主を思い続けた貴様の忠義。姫を通じ、確かに知った」
玖音が白銀の刃を構える。
「その忠義ごと、主君のもとへ送り届けよう」
雷馬は動かなかった。
「だから、安心して逝け」
玖音が印を結ぶ。
「……撫火慈刃」
漆黒を纏い、白銀の刃が走る。
白銀の刃が、馬の魂と鬼の身体を静かに切り離した。
雷がほどけ、嵐が消えていく。
純白の身体が、光となって夜空へ昇り始めた。
ルカが歩み寄る。
消えゆく馬を見上げ、言った。
「また、遊ぼうね」
「ルカ……」
馬の光が夜空へ溶けていく。
嵐は去った。
けれど、伏見には何も戻らなかった。
焼けた家。
砕けた道。
消えた声。
形を変えた巨椋池は、民家のすぐそばまで迫っていた。
戦いの終わりを見ていた者たちが、寺や民家から姿を現す。
そのうちの何人かが、馬の消えた場所まで駆け寄り、石を投げた。
折れた木片を投げた。
泣きながら、失われた者の名を呼ぶ声があった。
怒りは当然だった。
あの馬が奪った命は戻らない。
どれほど悲しい魂だったとしても、許されるはずがない。
それでも、私は涙を止められなかった。
殺された人々のために。
壊された伏見のために。
そして、主を探して走り続け、鬼へ堕ちた一頭の馬のために。
私は誰の目も憚らず、声を上げて泣いた。
ただ静かに、満月の光が宵の空を照らしていた。




