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宵星の巫女―鬼封神楽―  作者: いろはにぽてと
3章・神威・白金の刃
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64話 主なきもの

狼鬼の身体が大きく歪んだ。


骨が軋み、噴き出した黒い霧が全身を覆う。


少年の面影を残していた顔が細く変わり、深い笠も黒衣も、肉体とともに形を変えていく。


髪を束ねていた糸が切れた。


長い黒髪が衣の上へ広がり、裾は夜を引きずるように揺れた。


やがて、霧が晴れる。


そこに立っていたのは、狼でも狐でもない。


長い黒衣を纏い、笠を被ったひとりの女。


左右の瞳に狐の狡猾さと狼の鋭さを宿し、額には縦に開いた第三の眼がある。


頬まで割れた口の奥を、深い闇だけが満たしていた。


おぞましい姿でありながら、その衣には人の上に立つ者のような品がある。


笠の女が両腕を広げた。


黒衣の袖が翼のように開く。


地面に散らばっていた騎手の鎧と、玖音が折った二振りの太刀が浮かび上がった。


折れた刃の隙間を鎧の欠片が埋め、黒い霧が一つにつなぎ合わせる。


女の両手に、長く分厚い二振りの大太刀が現れた。


それでも構えようとはせず、切っ先を下げたまま私を見ている。


次の瞬間、玖音が地面を蹴った。


白銀の刃を振り上げ、女の首へ斬りかかる。


その背後では、時弦の金色の髪が地面を這っていた。


一本は玖音の腰へ巻きつき、残りは泥の上へ伏せている。


何かあれば、すぐに引き戻せるように。


白銀の刃と黒い大太刀がぶつかる。


鋭い音とともに、大太刀が砕け散った。


「やった……!」


声を上げかけた。


だが、玖音はすぐに刀を構え直した。


時弦の髪も張り詰める。


女の口元が、にたりと吊り上がった。


刃を失った柄を、空へと振り上げた。


その軌道に沿って地面から泥と土が噴き上がり、玖音の姿を覆い隠した。


玖音はすぐに後方へ跳ぶ。


砕けた刃は、もう届かない。


そう思った瞬間、地面の下から黒い刃が飛び出した。


砕けた欠片が霧によって長くつながり、その隙間を満たす闇までもが刃となっている。


黒い切っ先が、玖音の着地点へ迫った。


避けきれない。


その時、時弦はすでに髪を引いていた。


玖音の身体が横へ引かれ、黒い刃が眼前を通り過ぎる。


切っ先が胸元の衣を裂いた。


玖音は泥の上を転がり、すぐに身を起こす。


女は追わない。


喉の奥から、短い笑いが漏れた。


伸びていた刃が縮み、散らばった欠片が再び一振りの大太刀へ組み上がる。


額の眼が、玖音から時弦へと動いた。


刀を砕かれることさえ、策だったのだ。


狐の狡猾さと、狼の慎重さ。


二つを宿した獣の笑いに、邪悪な知性が混じる。


「ギャハハッ!」


玖音が立ち上がっても、女は刀を構えない。


その視線は、再び私へ戻っていた。


玖音の刃も、時弦の髪も意に介していない。


けれど、私を見る眼だけは違う。


鬼の内側へ触れ、その力を縛り、否定する舞。


影へ沈もうと、姿を変えようと、内にあるものまでは隠せない。


女の笑みが薄れた。


恐れているのではない。


私の奥にあるものを、見定めようとしていた。


その顔に、幼い頃の記憶が重なる。


いつも私の傍らにいた女。


人から蔑まれた時でさえ、場違いなほど明るく笑っていた。


姿が変わっても、あの声だけは変わっていない。


私の口から、一つの名が零れた。


「……(もの)(わら)(ひめ)


かつて彼女を嘲るために使われた名。


けれど今は、目の前の鬼を示す名として、それ以上のものはなかった。


その名を聞いた瞬間、物笑姫は眼を三日月のように細め、笑った。


やがて視線が私から外れ、()()へ向かう。


騎手を失い、ルカを追い続ける雷の鬼。


物笑姫は、その巨体を頭から蹄まで見渡した。


次の瞬間、姿が影へ沈む。


女は足元から黒い霧を噴き上げ、雷に焼かれながら、馬鬼の首へ牙を剥いた。


騎手に続き、馬鬼の力まで取り込むつもりなのだ。


「あの鬼、残った馬の力まで奪うつもりか!」


時弦が髪を伸ばした。


数本が物笑姫の脚へ絡みつく。


それでも止まらない。


時弦の身体が泥の上を引きずられ、髪が一本ずつ千切れていく。


玖音も踏み込もうとしたが、馬鬼から迸る雷に阻まれた。


最後の一本が切れる。


物笑姫が大太刀を高々と振り上げた。


その瞬間、ルカが馬鬼を包む雷の中へ飛び込んだ。


角が物笑姫の脇腹へ突き刺さる。


「ボクのお友達は食べちゃダメー!」


物笑姫の身体が馬鬼から引き剥がされた。


同時に、巨大な火柱が上空から落ちる。


物笑姫と馬鬼の間へ突き刺さり、大地を爆ぜさせた。


「おのれ……猿の分際で!」


熱風が巨椋池の水面を押し退け、黒衣の身体を炎の向こうへ吹き飛ばす。


その中へ、赫鬼が降り立った。


「……ぷはっ!」


瓢箪(ひょうたん)を肩に担ぎ、物笑姫を睨む。


「儂の前で、二度も酒の(さかな)を盗もうとは」


朴刀を地面へ突き立てると、炎が馬鬼を囲んだ。


「舐められたものよ」


物笑姫は炎の向こうで立ち上がった。


焼けた裾と髪の先から煙が立ち昇っている。


それでも、苦痛に歪む様子はない。


赫鬼が朴刀を引き抜く。


刃から炎が膨れ上がった。


だが、物笑姫は赫鬼を見ない。


その眼差しは、私へ向けられていた。


私は神楽刀を握り直し、震える身体を起こす。


狼の内に取り込まれた、狐と騎手の魂。


それらを一つにつないでいる力を削ぐ。


一歩を踏み出し、舞の構えを取った。


邪を祓う、鬼封神楽の舞。


足を運んだ瞬間、物笑姫の肩から黒い霧が剥がれた。


その奥で、女と獣の横顔が一瞬だけずれる。


額の眼が、左右の瞳とは別の方角を向いた。


喉の奥から、いくつもの声が重なった呻きが漏れる。


一つになった身体が、内側から裂けかけていた。


物笑姫の笑みが消える。


赫鬼の朴刀から炎が放たれた。


それでも彼女は私だけを見つめ、黒い口を開く。


「覚えておけ」


声は低く、妙に澄んでいた。


「次に相見えた時が、汝の最期じゃ」


私は次の一歩を踏み出す。


物笑姫の足元から黒い霧が噴き上がり、その姿を覆い隠した。


そこへ赫鬼の炎が襲いかかる。


けれど、悲鳴も、肉の焼ける音もしない。


炎が通り過ぎた後には、誰もいなかった。


泥の上に残された黒い染みも、雨に打たれて薄れていく。


「……消えおったか」


赫鬼は朴刀を下ろさず、辺りを見回した。


その声に、勝ち誇る響きはない。


私も舞の構えを解かず、染みを見つめた。


物笑姫が姿を消したのは、赫鬼の炎が迫った時ではない。


鬼封神楽が、あの身体を引き剥がしかけた瞬間だった。


やがて、黒い染みも雨の中へ消えた。


冷たい風が耳元を撫でる。


振り返っても、そこには誰もいない。


濡れた黒髪が、頬に張りついただけだった。



物笑姫が去ってなお、馬鬼はルカを追っていた。


ルカが右へ駆ければ向きを変え、左へ跳べば雷を散らしながら後を追う。


二頭は互いの動きを確かめるように、濡れた岸辺を駆け回った。


ほんのひととき、騎手を失ったことさえ忘れているかのように。


やがて、ルカが足を止め、時弦のもとへ駆け寄る。


馬鬼も立ち止まり、背後へ首を巡らせた。


けれど、そこには誰もいない。


それでも馬鬼は、かつての主の姿を求めるように、何度も同じ場所を振り返った。


しばらくして、その喉から低い声が漏れた。


馬鬼は天を仰いだ。


(いなな)きが黒雲を突き抜け、純白の雷光が噴き上がる。


空も、地も、巨椋池も白く染まった。


雷を纏った姿に、鬼のおぞましさはない。


正体を知らなければ、雷鳴を頂く神馬として恐れ、崇めていただろう。


「ぬぅあっ……! なんだ、この馬は……!」


赫鬼が朴刀を握り直す。


馬鬼の蹄が大地を砕き、首を振るたび、鞭のような雷が岸辺を裂いた。


膨れ上がった炎と雷光が衝突した。


地が揺れ、巨椋池の水が壁となって持ち上がる。


誰にも従わず、誰にも止められない。


それでも、失った主を求めるように、雷馬は荒れ狂った。


先ほどのルカの言葉が、胸の奥へ落ちる。


友達。


ルカは、人を殺し、里を焼いたこの馬をそう呼んだ。


馬鬼は何度も、誰もいない背後を振り返っている。


その眼は、私たちを見ていない。


怒っているのではない。


力で縛っていた鬼の騎手ではなく、もう二度と戻らない主を呼んでいる。


私が名を忘れてしまった、狼に呑まれたあの少年と同じだ。


操られ、鬼となり、罪を重ねた。


その罪が消えることはない。


それでも、怒りと嘆きの中を永遠に彷徨わせることが、償いになるはずもない。


敵として斬り捨てるのではなく、その魂を受け止め、弔わなければならない。


「玖音、時弦」


神楽刀を握り直す。


震えていた指に、わずかに力が戻った。


「力を貸してください」


雷鳴を頂く馬鬼を、まっすぐに見据える。


「あの馬を、私たちの手で弔います」

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