63話 喰―くえ―
胴を貫かれた騎手の口から、声にならない息が漏れる。
仰け反った胸元から黒い霧が噴き出した。
狼が裂けた口を開き、霧となった魂を吸い込んでいく。
狼鬼が狙っていたのは、騎手の魂そのものだった。
「……喰らう気か。ならば、まだ間に合う!」
時弦が金色の髪を一斉に引き戻した。
髪は腕へ幾重にも巻きつき、大弓と、そこにつがえられた巨大な槍を形作る。
時弦は小柄な身体を弓と弦の間へ滑り込ませた。
片足を弓柄へかけ、押し出す。
もう一方の足で地を蹴り、弓を押し広げながら宙へ跳んだ。
「馬も同時に仕留めれば……!」
浮いた身体ごと、両脚で弓を押し出し切る。
同時に、両腕で槍をつがえた弦を限界まで引き絞った。
見えたことさえ不思議なほど、一瞬の動作だった。
金色の大槍が馬鬼へ放たれる。
音が弾けた。
空気が槍へ吸い寄せられ、遅れて凄まじい衝撃が走る。
地面に溜まった水が押し潰され、岸辺の泥とともに放射状に吹き飛んだ。
馬鬼を仕留めるに足る一撃だった。
だが、騎手の魂が狼の口へ消える直前。
狼鬼の虚ろな目に、狐の狡猾な光が宿った。
「キャハハ……」
裂けた口が歪む。
狼鬼は再生した腕を、大槍の前へ突き出した。
その腕を覆うように、喰われかけた騎手の鎧が黒い霧の中から浮かび上がる。
砕けた胸当てと肩甲が幾重にも重なり、歪な盾を形作った。
金色の穂先が鎧へ激突する。
胸当てを貫き、肩甲を弾け飛ばし、その奥に突き出された狼鬼の腕までも深々と穿った。
それでも、槍の勢いは止まらない。
狼鬼の腕を貫いたまま、馬鬼へ迫る。
だが、狼鬼は退かなかった。
鎧ごと槍を受け止め、貫かれた腕を強引に捻り上げる。
槍を止めることはできない。
鎧が砕け、腕が引き裂かれ、狼鬼の身体が大きく弾き飛ばされる。
それでも、その僅かな抵抗が穂先の軌道を逸らした。
金色の大槍は馬鬼の脇を通り抜け、巨椋池の岸へ突き刺さる。
大地が爆ぜ、水と泥が天高く噴き上がった。
衝撃に煽られ、馬鬼の巨体が大きく揺れる。
だが、槍は届いていない。
馬鬼には、傷一つついていなかった。
「……クソッ!」
普段の時弦からは聞いたこともない言葉だった。
騎手の魂が狼の喉へ消える。
狼鬼の身体が脈打ち、傷口を黒い霧が覆った。
砕かれた二本の太刀と、引き裂かれた腕が形を取り戻していく。
その額には、騎手から立ち昇っていた淡い霧が纏わりついていた。
馬鬼が天を仰ぎ、咆哮を上げる。
騎手を喰らえば、狼鬼を通じて馬鬼へ命令を送れる。
狐はそう考えたのだろう。
【従え】
狼鬼を覆う霧が強くなる。
だが、馬鬼は全身から雷を噴き上げ、狼鬼を押し戻した。
【妾の命を聞け】
馬鬼は応じない。
騎手の枷から解き放たれ、もはや狐にも制御できなくなっていた。
それでも、馬鬼は暴れ出そうとはしなかった。
雷を纏った首を低くし、離れた場所に立つルカをじっと見つめている。
「狐には制御できていない……」
その直後。
流星のような炎が夜空を裂いた。
黒雲を貫き、巨椋池の上空で急停止する。
【来るな。こちらへ来るな】
狐の声が、慈悲を乞うように震えた。
天から怒声が落ちてくる。
「儂の酒の肴を奪う気か!」
その言葉だけで、誰なのか分かってしまった。
「この声は、赫鬼……?」
黒雲から炎の柱が落ちた。
炎が、上空に潜んでいた何かを追う。
甲高い悲鳴とともに、翼を広げた狐の鬼が雲から飛び出した。
狐はあの場所から、馬鬼と騎手を操っていたのだ。
迫る炎から逃れようと、狼鬼へ向かって高度を下げる。
玖音が傷ついた脚で地を蹴り、満月を振り抜いた。
白銀の斬撃が狐へ迫る。
だが、狼鬼がその前へ跳び込んだ。
満月が狼の肩から胸を斬り裂き、黒い血が飛び散る。
狐はその背後へ逃れた。
「逃がすか!」
時弦の髪が地面を這い、狐の脚と翼へ絡みつく。
大弓へ力を注いだ髪は、ほとんど残っていない。
それでも、狐を止めるには足りた。
狐が振り返り、私を睨む。
私は神楽刀を拾い、震える腕で構えた。
立っていることさえ、酷く辛い。
それでも、舞は終わっていない。
「鬼封神楽で……!」
悪意を斬る舞が狐へ届いた。
「ぐっ……ああああッ!」
狐の動きが鈍る。
その瞬間、私の視界が闇に包まれた。
声は聞こえない。
代わりに、無数の記憶が流れ込んでくる。
狼鬼に喰われた者たちの悲鳴。
怒り。
嘆き。
狐が狼を操るために利用してきた、幾つもの憎悪。
鬼封神楽に断たれ、行き場を失ったそれらが、一斉に溢れ出していた。
胸の奥が焼ける。
手足が鉛のように重くなる。
それでも、神楽刀を振り払った。
「この憎しみは……私のものではない!」
流れ込んだ記憶が弾け、闇が晴れる。
狐は時弦の髪を振り払いきれず、地上へ引き戻された。
翼を広げるが、頭上には赫鬼の炎が燃え広がっている。
目前には玖音の刃。
脚と翼には時弦の髪。
身体には鬼封神楽が絡みついている。
逃げ道を失った狐が、狼鬼の胸元へぶつかった。
炎の中には、瓢箪と朴刀を携えた赤毛の青年が浮かんでいる。
赫鬼が刃を振り上げた。
朴刀の切っ先に陽鬼の術が満ち、太陽そのもののような光球が膨れ上がる。
狐は、私を見た。
神楽を通じて狐と触れ合った私には、伝わっていた。
身体の奥に沈んだ疲労。
焼けるような痛み。
表には出さずとも、狐の力は確実に削れている。
赫鬼の力がなければ、ここまで追い詰めることはできなかった。
なぜ私たちに力を貸すのかは分からない。
ただの気まぐれなのかもしれない。
それでも、このまま舞い続ければ、押し切れる。
そう確信した瞬間だった。
私を見つめていた狐の口元が、ゆっくりと歪んだ。
そして、狼の黒衣を掴む。
「……もう、よい」
その声から焦りが消えていた。
「狼よ。妾を喰え」
狐は自ら、狼の裂けた口へ身を寄せる。
「一つになるのだ」
狼の牙が狐の肩へ食い込み、骨を砕いた。
「やめろ!」
玖音が満月を振るう。
赫鬼も朴刀を振り下ろした。
だが、狼鬼から噴き上がった黒い霧が、満月の刃を遮った。
赫鬼の放った光球も霧の中へ呑み込まれ、黒と赤の炎を撒き散らしながら弾け飛ぶ。
時弦の髪も、霧に触れて千切れていく。
翼も、腕も、醜悪な顔も。
狐のすべてが黒い霧となり、狼鬼へ吸収された。
「キャハ」
笑い声だけを残し、狐が消える。
狼鬼が顔を上げた。
額の中央に、新たな眼が開いている。
元からある両目にも狐の狡猾な光が宿り、醜く歪んでいた。
「ギャハハハハッ!」
獣の笑いに、狐の声が重なった。




