表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
宵星の巫女―鬼封神楽―  作者: いろはにぽてと
3章・神威・白金の刃
65/71

62話 理なき刃

現れた狼鬼の記憶はある。


深い笠。足先まで漆黒に染まった身体。羽織のようにまとった黒衣。


頬まで裂けた口も覚えている。


だが、その顔だけが思い出せない。


少年だったはずだ。


朱の宝珠を呑み込んだ瞬間、名も知らない少年の姿へ変わり、私たちを虚ろな目で見つめていた。


それなのに、顔を思い浮かべようとすると、記憶の中から輪郭だけが抜け落ちていく。


まるで、初めからそこには何もなかったかのように。


それでも、あの虚ろな目だけは覚えていた。


狼の両手には、二本の太刀が握られている。


交差した刃が十字を刻み、振り下ろされた満月を受け止めていた。


その目が、玖音の肩越しに一瞬だけ動く。


何かを探っているようにも見えた。


それでも、私と時弦は動けない。


私は神威神楽を舞い、時弦は金色の髪で馬と騎手を縛り続けている。


どちらかが力を緩めれば、二体の鬼は拘束を破る。


玖音に託すほかなかった。


玖音が全力で振り抜いた一撃。


だが、止められたのは刃だけだった。


鬼の怪力をもってしても、狼の両腕は少しずつ押し戻されていく。


「ぉおおおおッ!」


玖音の猛りに呼応し、満月から白銀の光が噴き上がった。


陽世の術が生み出す奔流が、夜の巨椋池を朝日のように照らし出す。


「ガァァァァァッ!」


狼も咆哮を上げ、二本の太刀を押し返そうとする。


玖音の頬が、わずかに緩んだ。


「陰世の術」


白銀の光が消えた。


同時に、玖音の姿も狼の眼前から掻き消える。


突如訪れた暗がりに、狼は玖音を見失った。


次の瞬間、その背後で黒衣が翻る。


「朝霧夢刃」


満月が狼の背を斬り裂いた。


獣が前へ崩れる。


だが、狼は倒れない。


地へ手をつく寸前、身体を反転させ、二本の太刀を背後へ薙ぎ払う。


玖音の胴へ、二振りの刃が迫った。


「……遅いッ!」


玖音は地へ倒れ込むように身を沈め、その下をすり抜ける。


「椛残照」


片手を地につき、その腕を軸に身体を跳ね上げた。


黒衣が夜空に翻る。


頭上から振り下ろされた満月が、狼の二本の太刀を砕いた。


白銀の刃はそのまま両腕を断ち、胸から腹まで深く斬り裂く。


黒い腕が地へ落ち、狼の体も大地へ叩きつけられた。


だが、胴の全てを断つには至らない。


舞い続ける私の腕は、とうに感覚を失っていた。


それでも止めれば、二体の鬼が同時に解き放たれる。


玖音は着地すると、満月にまとわりついた黒い霧を振り払った。


「お前の刀には、信念がない」


地に伏した狼へ切先を向ける。


「あるのは、ただの暴力だけだ」


狼は答えない。


裂けた口から涎を垂らし、虚ろな目で玖音を見上げている。


斬り落とされた両腕が黒い霧へ崩れ、肩口から新たな腕が生え始めた。


「来い」


玖音が柄を握り直す。


「その刀術は、貴様が喰らった男が名を与えたものだ」


狼の口が愉悦に歪む。


「形をなぞっただけで、宵冥の足元にも及ぶものか」


玖音は満月を構えた。


「貴様の理なき刃では、私には届かない!」


狼が地を蹴った。


玖音も迎え撃とうと踏み込む。


その足が、わずかによろめいた。


黒衣の裾から赤い雫が落ちる。


「玖音……?」


血が脚を伝い、足元の土を濡らしていく。


塞がったはずの傷が、開いていた。


「時弦! 玖音が……!」


だが、時弦にも応える余裕はない。


馬を縛る金色の髪が雷に焼かれ、次々と千切れていく。


馬が咆哮した。


それは獣の嘶きではない。


地の底から響く、怪物の呻きだった。


その声とともに、どす黒い悪意が神威神楽を逆流してくる。


殺せ。


誰でもいい。


目の前の命を奪え。


神楽刀が指からこぼれ落ちた。


両手が勝手に自らの首へ伸びる。


指が喉へ食い込み、息が詰まった。


「うっ……!」


違う。


これは、私の意思ではない。


「姫様!」


時弦が私の手首を掴み、無理やり首から引き剥がした。


肺へ空気が流れ込み、激しく咳き込む。


「今のは……私では、ありません……」


声を絞り出しながら、黒雲に覆われた空を見上げる。


馬へ注がれた何者かの悪意が、神楽を通じて私にまで流れ込んできたのだ。


「狐の支配が、強まっています。おそらく狐は、この上に……」


時弦も空を仰ぐ。


馬が激しく首を振り、全身から雷を噴き上げた。


金色の髪が軋み、一本、また一本と引き千切られていく。


その間にも、狼は玖音へ向かって駆けていた。


再生した両腕を大きく広げ、傷ついた玖音へ襲いかかる。


玖音が満月を構えた。


その立ち姿は、私と時弦へ続く道を完全に塞いでいた。


たとえ傷が開こうとも、こちらへは一歩も通さない。


そう告げるように、玖音は狼の正面へ立ちはだかる。


二体が激突する、その寸前。


狼は地面へ爪を突き立て、急激に進路を変える。


だが、狼が選んだのは私たちではなかった。


玖音が守りを固めた道とは反対へ、大地を削りながら駆け抜けていく。


玖音の横をすり抜け、そのまま馬と騎手へ向かった。


「まさか……!」


あの一瞬。


玖音の肩越しに向けられた視線。


狼が狙っていたのは、初めから騎手だった。


騎手は時弦の髪に縛られ、逃れることさえできない。


狼が再生した腕を振りかぶる。


そこに、刀術などなかった。


玖音が断じた通り、ただの暴力。


理なき刃が、金色の髪ごと騎手の胴を貫いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ