61話 月衝
全身から力が抜けていく。
五色の光を失った身体が、高度を下げ始めた。
浮揚の力を使い果たしたのだ。
足元には、雷に抉られた大地が広がっている。
命を落とす高さではない。だが、無事では済まない。
受け身を取ろうとした時、金色の髪が嵐を裂いて伸びてきた。
幾重にも身体へ巻きつき、落下を止める。
「時弦……!」
「無理をされますね」
時弦は私を髪で支えたまま、玖音との間にも金色の髪を渡していた。
空が白く弾ける。
時弦の頭上へ、雷が落ちた。
だが、天へ伸びた髪がそれを受け止め、大地へ流す。
白光が地面へ突き刺さり、土を黒く焼いた。
時弦は私を下ろしながら、馬の鬼を見据えた。
「姫様。先ほど玖音殿にも伝えましたが、あの鬼は片方だけを倒してはなりません」
「それは以前も聞きました。ですが、なぜなのですか」
「騎手は馬を操ると同時に、その力を抑える枷でもあります。片方だけを失えば、残された方はさらに凶暴になる」
額の宝珠が淡く輝く。
「討つのであれば、馬と騎手を同時に斬らなければなりません」
なぜ時弦がそれを知っているのか。
問いかけるより早く、遠くで白銀の光が走った。
玖音が満月を抜いている。
雷を纏った馬の巨体が、視界から消えた。
次の瞬間には、玖音の目前に迫っていた。
あまりにも速い。
あれを馬上の騎手ごと斬るなど、不可能に思えた。
「まずは騎手を引き剥がします」
時弦の宝珠が強く輝く。
馬の周囲が歪み、振り下ろされるはずだった蹄が泥へ沈んだ。
ほんの一瞬。
それで十分だった。
ルカが雷の中へ飛び込む。
激突する寸前、玖音がその背を蹴った。
跳躍した身体が馬を越え、満月の白銀が弧を描く。
甲冑ごと、騎手の腕が地へ落ちた。
馬が咆哮し、雷が四方へ弾ける。
だが、玖音はその全てを刀の一振りで斬り払った。
まるで、そこへ来ることが見えていたかのように。
玖音は馬の背へ飛び乗ると、たてがみを掴む騎手の腕を斬り落とした。
それでもしがみつこうとする黒い鎧の胴へ、足を叩き込む。
両腕を失った騎手が、地上へ落ちた。
切断面から黒い腕が生え始める。
しかし、満月の方が速い。
白銀の軌跡が走り、再生した腕が再び落ちた。
立とうとすれば脚を薙ぎ、生えた腕を斬り飛ばす。
玖音は騎手を一歩も動かさない。
「ウガァァッ!」
顔などないはずの鎧から、絶叫が響いた。
玖音は無言のまま、再生する四肢を斬り続ける。
その背後で、馬が地を蹴った。
再び走り出せば、もう捕らえられない。
「時弦、合わせてください!」
「承知しました」
私は神威神楽を舞った。
馬の荒れ狂う魂へ、意識を重ねる。
苦しい。
憎い。
痛い。
馬が慕っているのは、あの騎手の鎧ではない。
本当の主を失い、偽物に縛られた怒りが流れ込んでくる。
「もう、走らなくていい」
馬の身体を巡っていた雷が弱まる。
その脚へ、時弦の髪が絡みついた。
幾重もの髪が大地へ根を張り、巨体を縫い止める。
雷に焼かれるたび、それ以上の速さで新たな髪が伸びていく。
私が舞うほど、雷は弱まった。
蹄の動きが鈍り、やがて馬は片膝をつく。
「今です!」
時弦の髪が騎手にも伸びた。
再生を繰り返す黒い身体を持ち上げ、馬の首元へ引き寄せる。
馬と騎手。
二体の鬼が、同じ場所へ縛りつけられた。
金色の髪が軋み、一本ずつ引き千切られていく。
長くは持たない。
だが今、二体は一つの刃の軌道上にいる。
「さぁ、玖音殿」
時弦が叫ぶ。
「頼みます」
玖音が満月を鞘へ納め、柄に手を添えた。
「陽世の術」
白銀の刃から光が漏れ出す。
馬が咆哮し、騎手が腕を伸ばす。
玖音の視線は揺れない。
「桜霞――」
空気が張り詰めた。
次の一撃で、すべてが終わる。
そう思った。
だがその時、人が四つ足で走るような音が聞こえた。
振り返るが、何もいない。
足音だけが、時弦の髪に沿って駆け抜けていく。
音の消えた先。
金色の髪の下に落ちる影だけが、細長くうねった。
馬の足元で、影が音もなく膨らむ。
「一閃」
玖音が消えた。
桜色の閃光が、二体の鬼へ走る。
その軌道へ、黒い影が立ち上がった。
「始式――月詠」
笠を目深に被った黒衣の男が、二本の刃を振るう。
十字の斬撃が、桜色の閃光と衝突した。
轟音。
大地が裂け、桜色と黒の光が嵐を押し退ける。
満月の刃が、二本の刀に止められていた。
玖音の目が大きく見開かれる。
その眼前で、狼の鬼の口が人ならざる形に裂けた。
「……馬鹿な」
すぐ傍で、時弦の悔しげな声が漏れた。




