59話 叛逆の神威
私は母上から他の神楽を教わっていない。
新しい舞を一から生み出すことなど、できるのだろうか。
私は天へ奉った満月を見上げた。
白金の刃が、稲光を受けて煌めく。
その刃へ雷が引き寄せられる光景を、私は一度見ていた。
宗近様の声が蘇った。
『だが、逆だ。すべてな』
逆。
胸の奥に残り続けていた言葉だった。
異なる舞を、一から覚える必要などないのかもしれない。
すべてが逆なのだとすれば。
鬼を遠ざけ、邪気を封じる舞ではなく、私が鬼へ近づく舞。
鬼封神楽のすべてを反転させれば、馬の鬼そのものへ届くのではないか。
私はもう一度構えた。
踏み出した足を戻す。
外へ払った袖を胸元へ引き寄せる。
身体を巡らせる向きさえ反転させ、鬼を拒む舞を逆へ辿っていく。
その瞬間、世界から雨音が遠のいた。
砂嵐を駆ける蹄の音が、すぐ耳元で響く。
地面を蹴る脚の痛み。
身体を駆け巡る雷の熱。
逃げたい。
それでも、植え付けられた憎悪に抗えず、玖音を追い続ける苦しみ。
身体が重い。
見えない何かに背から押さえつけられ、脚を無理やり前へ運ばされている。
この感覚を、私は知っていた。
狐の鬼と向き合ったとき、身体へ絡みついてきた悪意。
憎しみを煽られ、心まで操られかけた、あの重さ。
「狐……」
思わず、その名が漏れた。
「姫様?」
時弦の声さえ遠い。
私は馬を見ながら、同時に馬の目を通して玖音を見ていた。
黒雲の中で雷が生まれ、その光が玖音へ狙いを定める。
馬自身が望んでいるのではない。
邪鬼によって植え付けられた憎悪を、狐が外から操っている。
その意思が馬の身体を押さえつけ、無理やり玖音を追わせていた。
「あの騎手は、狐の操る駒です」
私の声に、時弦が目を見開いた。
「狐が?」
「はい。姿はここになくとも、馬に植え付けられた憎悪を通して、その身体を操っています」
騎手は馬の主ではない。
狐が馬を操るために生み出した、憎悪の形だ。
先ほど、狐の鬼が満月の刃を受けたときのことが脳裏をよぎった。
あれほどの力を持つ鬼にしては、あまりにも容易く傷ついた。
満月の力だけではない。狐自身も、本来の力を出し切れていなかったのではないか。
「あの狐が弱っていたのは……」
私は馬の背にまとわりつく黒い靄を見つめた。
「あの馬へ、力を分けていたからかもしれません」
時弦の表情が険しくなる。
「この嵐と雷を保ち、遠くから馬を操るために……」
「はい。狐は自らの力の一部を、あの馬へ割いている」
だからこそ、あの場では満月の一撃をまともに受けた。
ならば、狐の意思ごと押し返せばいい。
私の意思を、馬の意思へ重ねればいい。
「……こちらへ」
舞いながら、雷の向かう先へ手を伸ばした。
巨大な雷が玖音へ落ちる直前、その軌道が大きく歪んだ。
地上へ伸びていた雷が途中で折れ、落馬した騎手へ向かう。
白い光が騎手の身体へぶつかり、激しく弾けた。
騎手の身体が焼け崩れ、黒い靄となって宙へほどける。
だが、散った靄はすぐさま馬の背へ引き寄せられた。
馬の身体から黒い靄が噴き出し、それと交わり、騎手の姿を作り直していく。
倒せてはいない。
狐が憎悪を操り続ける限り、騎手は何度でも形を取り戻す。
それでも、再生している間は動きを止められる。
玖音もルカも無事だった。
時弦が目を見開いている。
「姫様。今のは……」
「これが……鬼封神楽と対をなす舞」
そう答えながらも、確かに感じていた。
今の雷は、私の意思に応えた。
馬を完全に操ることはできない。
それでも、その意思と重なり、力の向きを変えることはできる。
鬼の意思と同化し、天災として顕れる神の威を借りる舞。
「神威神楽」
自然と、その名が口からこぼれた。
まるで、初めから知っていたかのように。
時弦は馬の鬼を見据えたまま尋ねた。
「今の舞を続ければ、あの馬を止められるのですか」
私は小さく首を振った。
「止められるかは分かりません」
胸の奥では、今も馬の鼓動が響いている。
「ですが、雷の落ちる場所なら変えられます」
玖音とルカも、雷が逸れたことに気づいたようだった。
ルカが大きく向きを変え、馬の鬼へ近づき始める。
雷さえ抑えれば、玖音は戦える。
私は時弦へ顔を向けた。
「私が神威神楽で、馬の雷を騎手へ向け続けます。
時弦は玖音に、刀はここにあると伝えてください」
「承知しました」
あの暴風に呑まれれば、大の男でさえ瞬く間に吹き飛ばされる。
だが時弦は、深く身を沈めると、力強く屋根を蹴った。
小さな身体が風を裂き、砂嵐の中へ消えていく。
「狼と狐が来る前に、終わらせます」
私は再び馬の鼓動へ意識を重ね、逆の舞を続けた。




