58話 馬上の憎悪
馬の鬼へ近づくにつれ、時弦の姿に違和感を覚えた。わずかだが、身体が縮んでいる。
髪は支点を変えるたびに千切れ、砂嵐へ消えていった。髪がほどけるごとに、時弦自身の身体まで少しずつほどけているようだった。
「時弦。身体が……」
私が声をかけると、時弦は自らの手を見下ろした。驚いた様子はない。小さく息をつき、盛り土の手前に残された家へ髪を絡ませた。
「ここで止まりましょう」
「ですが、玖音はすぐそこにいます」
時弦は荒れ狂う空を見上げた。稲光が空を裂き、遅れて轟音が響く。
「これ以上は、姫様の安全を保証できません」
籠は軋みながら、家の屋根へ下ろされた。
私は足元を確かめながら屋根へ降りる。板葺きの屋根は暴風に震え、今にも剥がれ落ちそうだった。
砂嵐の向こうでは、玖音とルカがなおも馬の鬼に追われている。
「狼と狐の鬼は、まだ辿り着いていないのでしょうか」
時弦は周囲の気配を探った。
「はい。少なくとも、近くにはいません」
息を整え、砂嵐の向こうを見据える。
「姫様、今しかありません」
狼と狐が合流すれば、玖音に刀を渡すどころではない。
玖音は伏見から雷を遠ざけるため、戦場を巨椋池の近くまで移した。
だが、このまま雷が落ち続ければ、池や水路まで壊される。
二匹が辿り着く前に、馬を止めなければならない。
「では、宗近様の刀を私が届けます」
時弦が髪を伸ばした。
「頼みます」
私は祓刃・満月を両手で掲げ、その髪へ渡そうとした。
だが、鞘へ触れた瞬間、時弦の髪が弾けた。
触れた部分は焼け焦げ、黒い灰となって風に散った。
「時弦!」
時弦は髪を引き戻し、焼けた先端を見つめた。
「……霊力がある。それは本当のようですね。私には触れられません」
「では、布で包めば……」
時弦は静かに首を振った。
「布を隔てても、この刀の霊力までは遮れないでしょう」
玖音との距離を測るように目を細める。
「姫様ご自身に放っていただくしかありません」
「ですが、ここからでは届きません」
浮揚の力で投げたところで、暴風に押し戻される。
時弦は砂嵐へ目を向けた。
「では姫様。この嵐を、神楽で散らすことはできませんか」
「嵐を……」
「鬼の力で生まれたものなら、祓えるかもしれません。
風が弱まれば、さらに近づく道も開けます」
私は腰に差した神楽刀へ手を添えた。
「試す価値はあります」
時弦は疲れを滲ませながらも、真っすぐに私を見た。
「姫様にしかできません」
私は満月を鞘から抜き、浮揚の力で宙へ奉った。
白金の刃が切っ先を天へ向け、荒れ狂う空を刺すように静止する。
雷が落ちても、満月なら私を守ってくれる。
宗近様が鍛えた、雷さえ祓う刃。
今は、この刀を信じるしかない。
私は神楽刀を胸に抱き、雷風の中で足を開いた。
ヴィタが神楽刀に杖の力を宿したことは分かっている。
けれど、今は何の力も感じ取れない。当てにはできなかった。
鬼封神楽は、災いを祓う舞。
雷鳴とともに、雨が一斉に降り始めた。
雨粒を羽衣の力で弾き、足を踏み、袖を払う。
鈴を鳴らす。
祓いの力が暴風の中へ広がった。
頭上で光が弾けた。
黒雲を裂いて落ちた雷が、宙に浮かぶ満月の切っ先へ吸い込まれる。
白金の刃が眩く輝き、雷の光をそのまま呑み込んだ。
刃を伝った光は、地へ届く前に細かな火花となって散った。
熱の余韻が肌を打つ。けれど、痛みはない。
私は足を踏み替え、袖を払い続けた。
砂嵐の向こうで、馬の背にしがみついていた黒い騎手が、声にならない悲鳴を上げた。
身体から黒い霧を噴き出し、馬上から転げ落ちる。
けれど、馬は止まらない。
雷も風も弱まらず、騎手を失ったまま玖音を追い続けている。
「効いていない……」
いや、違う。
神楽は確かに届いていた。
その力に弾かれたのは、騎手だけだ。
馬の鬼そのものには、何も起きていない。
鬼封神楽は邪気を封じる舞。
ならば、あの騎手は馬そのものではない。
馬の内に植え付けられた憎悪が、人の形を得て現れたものなのかもしれない。
「あの騎手は、馬の鬼とは別のものなのですね」
私が呟くと、時弦も目を凝らした。
「そのようです。
狐によって植え付けられた憎悪が、形を成しているのでしょう」
砂嵐の向こうで光が弾け、ルカのすぐ後ろに雷が突き刺さった。
私は神楽刀を握り締める。
騎手を引き剥がしても、馬は止まらない。
本体である馬そのものへ届かなければならない。
「この舞では、あの馬の力は祓えない……」
時弦が私の横顔をうかがった。
「姫様。神楽を止めますか」
私は答えられなかった。
鬼封神楽では、あの馬そのものへ届かない。
そのとき、セイメイの言葉が脳裏に蘇った。
『神楽は、それのみか』
私は足を止め、時弦を振り返った。
「時弦。母の神楽は、今の舞がすべてでしたか?」
時弦の表情がわずかに強張った。
視線を伏せ、迷った末に口を開く。
「……クシナ様からは、姫様に伝えるなと言われていました」
「母上が?」
「あの方の神楽は、その舞だけではありませんでした」
胸の奥にあった疑問が、形を持った。
「……やはり、そうでしたか」
鬼を遠ざけ、邪気を封じる鬼封神楽。
それとは異なる舞がある。




