57話 知らぬ名
時弦は私の姿を確かめ、安堵したように息をついた。
「よくご無事で」
「はい。時弦が来てくれたおかげです」
その視線が、私の手にある満月へ落ちる。
「刀を受け取れたのですね」
「宗近様からお預かりしました。玖音へ届けるために」
時弦は頷きかけ、ふと黒雲の向こうへ目を向けた。
「狐の傷は……まさか、姫様が?」
「そうです。
満月が力を貸してくれました。この刃には、確かに霊力が宿っています」
時弦は抜き身の満月をしばらく見つめた。
「そうでしょうか。
名刀であることに疑いはありませんが、私には霊力を帯びているようには見えません」
「ですが、私の呼びかけに応えてくれたのです」
「姫様にだけ見える、ということでしょうか」
刀を胸元へ引き寄せる。
「ですから、きっと玖音の力になれるはずです」
「しかし、姫様をお連れするには……」
時弦は言いかけ、私の顔を見て口を閉ざした。
遠くで雷鳴が轟く。
その音に、時弦は黒雲の向こうへ目を向けた。
「玖音殿のおおよその居場所は分かっています。あの雷を追えば、たどり着けるはずです」
それでも迷うように、私と夜空を見比べる。
やがて観念したように息をついた。
「……分かりました。どのみち、姫様をここへお一人で残すわけにもいきません」
時弦は額の宝珠を輝かせ、金色の髪を伸ばした。
「少し窮屈ですが、我慢してください」
「え?」
金色の髪が伸び、私の腰と腿へ巻きついた。
さらに幾筋もの髪が編み合わさり、私たちを乗せる籠となる。時弦もその隣へ腰を下ろした。
籠は頭上まで弧を描き、私たちを覆っていた。編み目には、細い金属の針が取りつけられている。
籠から伸びた幾筋かの髪が、湿った地面や石垣へ深く突き刺さる。別の髪は遠くの屋根に巻きついた。
「しっかりおつかまりください」
張り詰めた髪に引かれ、籠が宙へ運ばれた。
屋根から大木へ。
大木から寺の軒へ。
籠から伸びた金色の髪が次々と支点を変え、私たちを雷の落ちる方角へ運んでいく。
不意に、頭上で白い光が弾けた。
「あっ……なっ、やぁ!」
思わず悲鳴をあげてしまった。
けれど、雷は籠の編み目に取りつけられた針へ落ちた。
青白い光が籠の外側を走り、地上へ伸びた髪を伝った。直後、離れた場所の地面が轟音とともに爆ぜた。
私の身体には痺れ一つ届かなかった。
時弦は、雷の通り道まで作っていたのだ。
眼下には、嵐に引き裂かれた伏見の里が見えた。
板葺きの屋根はめくれ上がり、折れた梁が夜空へ突き出している。壁を失った家の中には、倒れた棚や砕けた器が散乱していた。
道には戸板や柱が転がり、人々が身を寄せ合いながら、まだ形を保っている寺や屋敷へ逃げていく。
稲光が走るたび、崩れた家々と、屋根を剥がされた堂が白く浮かび上がった。
籠は大きく揺れていたが、崩れる気配はない。
私は満月を抱え直し、隣に座る時弦へ尋ねた。
「狼の鬼は?」
「追っていましたが、霧の中で見失いました。
その折、姫様が空から落ちてこられたため、急ぎ駆けつけたのです」
「そうでしたか。
やはり近くに潜んでいたのですね。追えば、餌食になっていたかもしれません」
「しかし、あの狼の鬼を侮りすぎていたのかもしれません」
「狼の鬼を?」
「宵冥の刀術を使っていました。剣筋も身のこなしも、まるで彼そのものでした」
「宵冥……?」
聞き覚えのない名だった。
時弦は怪訝そうに眉を寄せた。
「宵冥ですよ。お忘れですか。あの色男です」
「その方は、どなたですか?」
時弦の動きが止まった。
籠が、宙で大きく揺れる。
「……姫様。何を仰っているのです」
「私は、その方にお会いしたことがあるのですか?」
時弦の表情が強張る。
「彼は、私たちの旅に同行していました」
「旅に……?」
「姫様も、彼が左門殿を裏切るはずがないと仰っていたではありませんか」
「私が?」
そんな言葉を口にした覚えはない。
「黒髪の少年です。深い笠を被り、二振りの刀を背負っていました。姫様を庇い、目の前で狼の鬼に喰われたのです」
「……そのような方は存じません」
「姫様……」
「どなたかと勘違いしているのではありませんか?」
「勘違いなど……」
時弦は言いかけ、私の手の甲へ目を落とした。
五つの竜珠のうち、一つだけが蒼く鈍い光を放っている。
「姫様。先ほど、蒼の竜珠の力を使われましたね」
「はい。狐に引きずり出された憎しみを、記憶から切り離しました」
「憎しみだけを?」
「そのはずです」
時弦は蒼の竜珠と私の顔を見比べた。
「……本当に、それだけだったのでしょうか」
その言葉に、胸の奥がかすかにざわめく。
伏見で狼の鬼と相対したこと。
傷ついた玖音。
その前に立つ、黒い人影。
深く被った笠と、二振りの刀。
けれど、顔だけが浮かばない。
記憶の底で、笠の少年の唇がかすかに動いた。
声も、その言葉の意味も思い出せない。
それでも、言葉だけが自然とこぼれた。
「紫苑の誓い……」
時弦が目を見開く。
「それを、どなたから?」
「分かりません。ただ、この言葉だけは、知っていたような気がします」
時弦は蒼の竜珠を見つめた。
「忘却の力が、姫様の望んだものだけを奪ったとは限りません」
「時弦?」
再び雷が落ちた。
時弦は籠から進行方向へ髪を伸ばし、新たな屋根へ先端を引っかける。張り詰めた髪が、籠を再び前方へ運んだ。
里の外れへ近づくにつれ、家並みは途切れ、水路と田畑が現れた。
橋は半ばから折れ、溢れた水が道を呑み込んでいる。倒れた稲は泥水へ沈み、引き抜かれた柳が水路を塞いでいた。
籠から伸びた髪は、辛うじて残った橋杭や水辺の大木に絡みつき、私たちを先へ運んでいく。
「姫様は、玖音殿の力になれると仰いましたね」
「はい」
「宗近様の刀は、きっと助けとなるでしょう。ですが、蒼の竜珠を当てにしてはなりません」
「ですが、あの力がなければ、私は狐の言葉に囚われたままでした」
「あの狐に傷を負わせ、なお姫様が生きておられること自体が奇跡なのです」
時弦の声は厳しかった。
「未熟なまま再び使えば、次は私か、玖音殿を忘れるかもしれません。それでも構わないのですか」
私は答えられなかった。
腰へ巻きついた時弦の髪から、温もりが伝わってくる。
いつか、この温もりさえ忘れてしまうのではないか。
そう考えた瞬間、私は時弦の手を強く握っていた。
時弦は何も言わず、握り返した。
やがて田畑も途切れ、広大な水面が現れた。
巨椋池だった。
穏やかなはずの入り江が、今は荒れ狂う黒い海のように波立っている。
岸辺の葦は深く倒れ、杭に繋がれていた小舟は岸へ打ち上げられるか、水中に沈んでいた。
水辺の小屋も壁を失い、折れた柱だけが波間に残っている。
黒雲を裂いた雷が、水面へ映った。
一瞬だけ、入り組んだ水路と葦原が青白く浮かび上がる。
その先では、巨椋池を背に、巨大な砂煙が里外れの田畑を覆っていた。
上空からも見えていた、何度も雷が落ちていた場所だ。
けれど、何を狙っているのかまでは分からなかった。
「あの砂嵐の中に、玖音がいるのですか?」
「はい。玖音殿が自ら囮となり、雷を里の外へ引きつけています」
「傷が塞がったばかりなのに……」
砂嵐が壁のように迫った。
吹きつける砂に視界を奪われ、隣の時弦の姿さえ霞んでいく。籠も暴風に煽られ、大きく揺れた。
私は満月を片腕に抱き、浮揚の力を周囲へ広げる。
広げた力が、迫る粉塵を左右へ押し退けた。二人の周りにだけ、わずかな空間が生まれる。
時弦が目を見開いた。
「姫様、これは……」
「浮揚の力を広げました。長く保てるかは分かりませんが、これなら進めます」
「分かりました。揺れますので、お気をつけください」
時弦は籠から砂嵐の奥へ髪を伸ばし、見えない何かを掴んだ。
髪が強く張った次の瞬間、籠が前方へ引かれる。
砂嵐の奥で雷が弾けた。
一瞬の光が、粉塵の向こうを駆ける影を照らす。
「あれは……」
「玖音殿です」
私は満月を強く抱いた。
「この砂嵐の中に、ただ一人で……」
「……いえ、姫様。ルカもいます」
籠から伸びた髪が、さらに強く張った。
私たちは風と砂を押し分け、玖音のもとへ向かった。




