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宵星の巫女―鬼封神楽―  作者: いろはにぽてと
3章・神威・白金の刃
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56話 物笑ひ女―ものわらひめ―

※本話より、「次元ジゲン」の表記を「時弦ジゲン」へ変更します。設定や読み方に変更はありません。

嵐が吹き荒れる伏見の里。


その上空で、私は暴風に翻弄されていた。


風は寺の瓦を剥がし、家財を巻き上げ、里を引き裂いていく。


眼下では馬の鬼が雷を放ち、落ちるたびに火の手が上がっていた。


「玖音! 時弦(ジゲン)!」


返事はない。二人がいるはずの場所さえ、砂埃の中に沈んでいる。


狐と狼が合流する前に、どちらかを見つけなければならない。


だが、こちらの姿を先に晒せば、もう一方を呼び寄せられるかもしれない。


地上からでは、砂埃に遮られて何も見えない。


私は黒雲を隠れ蓑にしながら、上空から鬼の位置を探ろうとした。


そのとき、奇妙なものが目に入った。


空を覆い尽くす黒雲の中に、一か所だけ、ぽっかりと穴が開いている。


暴風の中にありながら、その輪郭は少しも崩れていなかった。


私はさらに羽衣に力を込め、その切れ目を目指して高度を上げ黒雲を抜けた。


耳を打っていた轟音が遠のき、足元で嵐が渦巻いているのが嘘のような静寂に包まれる。


夜空にあるのは、月だけだった。


『キャハハ!』


背後から響いた声が、頭の奥にも直接流れ込む。


振り返ると、狐の鬼が月を背に浮かんでいた。


姿はいまだ輪郭を結ばず、闇を塗り固めたように黒い。


細く歪んだ目の下で口が異様に裂け、牙から涎が垂れている。


背には、黒い霧で形作られた一対の翼が広がっていた。


『キヒャヒヒャ! ただのお姫様が、なぜここにおる』


「狼の鬼は、どこです」


『さてな。汝の背後に潜んでおるやもしれぬぞ?』


「その手には乗りません」


満月の柄を握る私を見て、狐が笑う。


『少しは賢うなったか』


その笑い声を、私は知っていた。


醜く歪んでいても、その奥には、幼い頃に城で幾度となく聞いた面影が残っている。


「あなたは、かつて城に仕えていた侍女ですね」


狐の笑いが止まった。


『何を根拠に申しておる』


「その笑い声を覚えています。

 物心がついた頃には、あなたはすでに城にいました」


狐の鬼は鋭い目で私を睨んでいた。


込み上げる何かを噛み殺すように、私の言葉へ耳を傾けている。


「ずっと近くにいることが当たり前で、

 今さら本人に名を尋ねるのが恥ずかしかったのです」


「だから私は、ほかの侍女たちに尋ねました。

 けれど、返ってきたのは、いつも同じ呼び名でした」


「ものわらひめ、と」


狐の肩が、わずかに揺れる。


「よく笑う姫という愛称だと思っていました。けれど、本当は違った」


物笑いの女。


人々の笑いものにされた女という、侮りの言葉だった。


あのとき、私を見たあなたの顔から笑みが消えたことを、今でも覚えている。


「私まで、あなたを侮辱した。

 そのことを、今でも怒っているのではありませんか」


狐は大きく仰け反り、裂けた口を開いた。


『キャハハ! その程度の侮辱で、妾が鬼になったと思うたか!』


『何が妾をこの姿へ変えたのか。

 仕組みを知ったところで、今さら汝は妾を憎まずにいられるものか?』


「それでも、私は知りたい。あなたの本当の名も」


『妾はとうに人の皮を捨てた! 名も過去も、すべて捨てた!』


「誰かに無理やり鬼へ変えられたのですか」


『差し出された手を取ったのは、この妾自身よ。

 誰に強いられたものでもない』


『力を得れば、妾を笑った者どもを見下ろせる。

 恐怖に歪む顔を眺められる。これほど愉快な生が、ほかにあるものか!』


胸に残っていた憐れみが、静かに冷えていく。


この者の過去に何があったのかは分からない。


けれど、今ここにいる鬼は、自らの意思で悪意を選んでいる。


「もし、ただ利用されただけの犠牲者なら、

 私はあなたを斬れなかったかもしれません」


『憐れみとな? キャハハ! 汝の内に芽吹いた憎しみを、妾が育ててやろう』


刀を抜こうとした瞬間、胸の底へ沈めていた憎悪が引きずり出された。


『憎かろう。城を壊し、里を裂き、汝から多くを奪う手助けをしたのは、この妾ぞ』


胸の奥で黒い炎が燃え上がり、身体が鉛のように重くなる。


高度が落ち、羽衣がかろうじて私を支えた。


『されど、汝が最も憎んでおるのは、それではあるまい?

 左門、といったか。汝が恋い慕うておった男よ』


満月を握る手が震えた。


『実に脆き男であったな。虫けらのように消えおったわ』


「その名を汚すな!」


『ならば、なぜ死んだ?』


「あの方は弱かったから死んだのではありません!

 自分が生きることより、誰かを生かすことを選んだのです!」


『キヒヒ。……汝がどれほど慕おうと、とうに死んでおる』


「黙れ……!」


この鬼さえいなければ。


左門様も、父も、民も、皆で支え合って生きていけたかもしれない。


憎悪が膨らみ、視界が黒く染まる。それなのに、刀を抜くことさえできない。


そのとき、鞘の中で満月が澄んだ音を立てた。


憎しみで斬るな。


宗近様の言葉が蘇る。


悪意に憎悪を返せば、斬った後も私はこの鬼に縛られ続ける。


共に過ごした時間も、その死が残した悲しみも、忘れてはならない。


けれど、狐がその記憶へ絡ませた憎悪まで抱き続ける必要はない。


ならば、断つ。


左門様の記憶ではない。


狐によって膨らまされ、心を縛っている感情だけを。


「断つ」


手の甲で、蒼の竜珠が瞬いた。


冷たい光が胸の奥へ流れ込み、左門様の笑顔が霞む。


「違う……! 消えてはいけない!」


声が遠ざかり、顔の輪郭が薄れていく。


「この方を忘れることなど、あってはなりません!」


蒼い光が激しく瞬いた。


霞んでいた笑顔が戻り、その記憶へ絡みついていた黒い糸だけがほどかれていく。


蒼の竜珠が消そうとしたのは、憎しみだけではない。


それを生んだ記憶ごと、私の中から奪おうとしたのだ。


玖音が拒絶した、蒼の竜珠に宿る力の名が。


忘却。


一歩誤れば、私という自我すら消えかねない力だった。


胸を焼いていた炎が消えた。


悲しみも怒りも残っている。


けれど、それらはもう、私を動かす主人ではなかった。


『妾の呪縛を、己が心より断ち切ったというのか……。

 されど、如何にして……』


その声は頭の内側にも響いたが、もう心までは届かない。


私は満月を抜いた。


刀身から、澄んだ青白い霊気が溢れ出す。


『憎しみを捨ててなお……なぜ、妾へ刃を向けられる!』


「許したわけではありません」


私は満月の切っ先を、狐へ向けた。


「あなたの罪も、奪われた人々も忘れない。

 ですが、あなたを止めるために、私の憎しみは必要ありません」


「あなたを斬ります」


玖音の動きを思い浮かべる。


かつて彼女の隣で真似た一振りを、記憶のままになぞる。


羽衣の力を刃へ流し、風と共に狐の懐へ飛び込んだ。


刃に、ほとんど手応えはなかった。


次の瞬間、狐の右腕が闇ごと宙を舞った。


斬れた。


自分でも、そう理解するまでに一瞬かかった。


『キヒャアァッ! なぜじゃ!

 先ほどまでの汝に、妾の身を断つ力などなかったはず!』


考えるより先に、玖音の動きをなぞって刃を返す。


黒い影が満月の刃を受け止める。


満月が触れた瞬間、影に無数の亀裂が走った。


『その刃か。羽衣か。それとも、汝自身が変わったか……。

 汝は一体、何者だ?』


「あなたが言ったのでしょう。ただの姫です」


空では、霧となる狐を追いきれない。


ならば、逃げる場所ごと奪う。


私は残された左肩へ斬り込むと見せかけ、刃筋を外へ逸らした。


満月が、翼を支える黒い霧の根元を薙ぐ。


刃が触れた瞬間、一対の翼に無数の亀裂が走った。


『何を――』


黒い翼が崩れ、狐の身体が大きく傾く。


私はそのまま狐へ掴みかかり、羽衣の浮揚を解いた。


飛ぶ術を失った狐もろとも、黒雲へ落ちていく。


轟音が戻り、稲光が視界を白く焼いた。


雷鳴の中を突き抜け、地面が目前まで迫る。


私は寸前で狐を放し、羽衣を広げた。


狐だけが地面へ叩きつけられ、土煙が上がる。


そのとき、私の衣に絡みついていた一本の金髪が、糸のようにぴんと張った。


次の瞬間、髪の伸びる先で、時弦が砂埃を裂いて飛び出した。


「姫様!」


時弦が駆け込み、額に宿る宝珠の力で髪を伸ばす。


伸びた髪は鬼の力で自在にうねり、狐の手足へ巻きついて、その身体を締め上げた。


「逃がしません!」


狐の動きが、目に見えて鈍る。


『裏切った鬼の娘まで来おったか……! 時を操る術に、その刃か……』


「時を操る?」


時弦は髪で狐を縛っているだけだ。


だが、奴の言葉は不自然に間延びしていた。


『なるほど……。先ほどまでとは事情が違うようじゃ』


私はすかさず踏み込み、満月を振り下ろした。


だが、刃が届く直前、狐の身体が足元から黒い霧へ変わり始めた。


『手の内も知らぬまま命を賭すほど、妾は愚かではない!』


「待ちなさい!」


私の刃と時弦の槍が狐を貫く。


しかし、刃も槍も黒い霧を散らしただけだった。


『覚えておけ、最後に笑うのは汝ではない。妾じゃ』


狐は完全に消えた。


「追います!」


「時弦、待ってください。

 姿を消した狐を追えば、狼の鬼が待つ場所へ誘い込まれるかもしれません」


「……ですが」


「奴の狙いは、おそらく私です

 今は誘いに乗るべきではありません」


時弦は悔しそうに唇を噛み、髪を戻した。


「……分かりました」


「玖音を探しましょう」


私は満月を鞘へ戻した。


狐への憎しみが、すべて消えたわけではない。


それでも、もう私を縛ってはいなかった。


瞼の裏には、左門様の笑顔が鮮やかに残っていた。

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