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宵星の巫女―鬼封神楽―  作者: いろはにぽてと
3章・神威・白金の刃
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55話 理の刃

宗近様は、左肩から血を流しながらも、馬の鬼が暴れている方角へ向かっていた。


地蔵が立ち並ぶ、里の道。


吹き荒れる風の中を、よろめきながら進んでいる。


「あの傷で、一人で雷の馬を止めるつもりなのですか」


そう思ったが、すぐに違和感を覚えた。


違う。


止めに行くのではなく、何かを運んでいる。


宗近様の右腕には、鞘ごと抱えられた刀があった。


決して誰にも触れさせなかった秘蔵の刀だ。


「宗近様!」


私は大声を上げた。


「その肩で、鬼の方へ行ってはいけません!」


けれど、嵐に耳を奪われているのか、宗近様はこちらに気づいていない。


私は竜珠の浮揚を使い、宗近様めがけて飛んだ。


「あ、飛びすぎ……!」


思ったよりも身体が前へ出た。


宗近様が振り返った時には、もう止まれなかった。


「きゃっ!」


「ぬわぁ!?」


正面からぶつかり、二人そろって地面に転がった。


慌てて身を起こす。


「ご、ごめんなさい! お怪我は……いえ、左肩を怪我されていますよね。すぐ手当てを」


そう言って手を差し出すと、宗近様は掴みかけた手を止めた。


「なんだ、その手は」


「手……?」


「その甲に宿っている光はなんだ。なぜ珠のようなものが五つも浮かんでおる」


手の甲には、五つの竜珠が宿っていた。


淡い光が肌の下で揺れ、浮揚の力によって、私の身体はかすかに宙へ引かれている。


宗近様の目が鋭く細まった。


「貴様、妖だったのか」


「違います! 私は菜垂です!」


「その名を名乗るな。妖は人の姿も、声も、記憶さえも盗む」


「盗んでいません。本当に、私は菜垂です」


「ならば、なぜ浮いておる。なぜ手にそのような光を宿す」


「これは竜珠です。陰陽師から与えられた珠で」


「竜珠? 陰陽師? ええい、戯言を並べよって!」


宗近様が刀を抜いた。


鞘走りの音が、夜気を裂く。


白銀の刀身が雷を受け、月そのものを鍛え上げたように光っている。


その切っ先が私へ向けられた。


「ならば答えろ。ぬしは誰の娘だ」


私はまっすぐに宗近様を見た。


「クシナ姫の娘、菜垂です」


宗近様の眉が、わずかに動いた。


「クシナ様の名まで盗んだか」


「盗んでいません」


「ならば、どう証を立てる」


「母上の舞を、覚えておいでですか」


「クシナ様の舞を知らぬ刀鍛冶が、この伏見におると思うな」


「ならば、見てください。私は、母の娘です」


私は一歩下がり、舞った。


鈴の音はない。


母上が遺した神楽。


足を運び、袖を払い、呼吸を合わせる。


浮く力が足運びに混じり、足先は宙を撫で、袖は夜の風を掬った。


もう、ただの人の動きではない。


それでも、私の中にあるものは変わらない。


これは祈りではない。


私が、私の意志で舞う神楽だ。


「クシナ様の舞か」


宗近様の刃が、わずかに止まった。


「だが、その舞を真似ただけで信じろと?」


「真似ではありません。母上から受け継いだ舞です」


雷鳴の中で風が荒れ、足元の土が跳ねる。


それでも、舞は崩れなかった。


宗近様は、私の一挙手一投足から目を離さない。


やがて、低く呟いた。


「細部にこそ、神は宿るという」


「宗近様……?」


「息遣いも、指先の運びも、眼差しの雄大さすら、まさにクシナ様の生き写しのようだ」


宗近様の手から力が抜けた。


けれど、その目に宿る恐れは消えていない。


「その舞は、妖には踊れぬ」


「では、信じてくださるのですか」


「信じる」


宗近様は低く答えた。


「だが、逆だ。だからこそ恐ろしい」


「逆……?」


「クシナ様の舞は、ただの祈りではない。神の威を人の身に降ろす、禁忌の舞だった」


宗近様は、私の手と宙へ浮く足元を見た。


「お前が菜垂様だからこそ、その行く末が恐ろしい。その手の光も、浮く身体も、もはや人のものではない」


その時だった。


玖音とジゲンが向かった先で、雷光が弾けた。


嵐のような一撃が地を削り、民家を抉りながら、こちらへ飛んでくる。


「宗近様、伏せて!」


考えるより先に、身体が動いた。


私は宗近様へ飛び込み、押し倒すようにして雷撃を避けた。


轟音と閃光。


雷撃は私たちを呑み込む寸前で軌道を変え、白銀の刃へ吸い寄せられた。


刀身を伝った雷が地面へ流れ落ち、火花が散る。


鼻を焦がす臭いが残ったが、私たちは焼かれていなかった。


「ごめんなさい、二度も押し倒して!」


「よい。それよりも、菜垂様。後ろを見よ」


振り返る。


白銀の刃が、逆さになって宙に立っていた。


雷を纏いながらも、刀身は傷一つなく輝いている。


宗近様の手を離れた刀が、竜珠に引かれて浮いたのだ。


「あの雷を、刃が逸らしたというのか」


「おそらく、私が無意識に刀を引き寄せたのだと思います」


「逆さに立つ刃など、聞いたこともない」


「逆さ……」


竜珠の浮揚は、ただ空へ上がるだけの力ではない。


向きを変え、力を反転させれば。


胸の奥で、何かが噛み合った。


「宗近様。伏見を救うためです」


私は浮いた刀へ手を伸ばす。


「この刀を、玖音に持たせてください」


「待て!」


怒声が響いた。


「まだ、疑っているのですか」


「ぬしが人であるかは、すでに見極めておる」


「では、なぜ止めるのです」


「その刀が何のために打たれたか、分かっておるのか」


「邪を斬るためではないのですか」


「違う。儂が求めたのは、決して滅びぬ刃だ」


「滅びぬ刃……?」


「折れず、朽ちず、炎に焼かれようとも失われぬ。振るう者が死んだ後も、刃だけは残り続ける」


私は、宙に浮かぶ刀を見た。


雷を受けても傷一つなく、満ちた月のような光を放っている。


「だからこそ、人斬りに与えてはならぬ」


宗近様の声が低くなる。


「人を斬ることに悦びを覚えた者の手に渡れば、取り返しがつかぬ。使い手を討とうが、刀は残る。奪われれば、また次の者が人を斬る」


「壊すことは……」


「できぬ。そのために打った刃だ。儂にすら、滅ぼす術はない」


白銀の輝きが、急に恐ろしいものに見えた。


「鬼を斬り、民を守るためならばよい。だが、憎しみに呑まれ、人を斬るために使われれば、この刀は幾代にもわたって災いを残す」


「玖音は、殺すことを望んで刃を振るう者ではありません。あの子は、守るために戦います」


「誓えるか」


「はい」


宗近様は、なおも私を見つめていた。


「その従者だけではない。菜垂様、ぬし自身はどうだ。その刃を、決して憎しみのために振るわせぬと誓えるか」


息が止まった。


セイメイの首を折った私に、そんな誓いができるのだろうか。


あの場では、ほかに道がないと思った。


けれど、それが正しかったのかは今も分からない。


私は、懐に収めた神楽刀を意識した。


かつて、憎しみのまま振るおうとした刀。


その記憶が、胸の奥に重く沈んでいる。


だからこそ、誓わなければならない。


「誓います」


私は、まっすぐに答えた。


「私も玖音も、憎しみのために刃を振るいません」


宗近様はしばらく私を見つめ、静かに目を閉じた。


「クシナ様の娘が、この刀に導かれたか」


宗近様は雷を孕んだ刀へ歩み寄り、白銀の刀を掴み取る。


「ぬぅっ……!」


「宗近様!」


焼ける肌の臭いがした。


刀は、その手の中で静かに震えている。


まるで、この時を待っていたかのように。


宗近様は震える両手で刀を鞘に納め、私へ差し出した。


「菜垂様。そなたに託す」


雷が轟き、炎が揺れた。


逃げ惑う人々の悲鳴の中でも、その声だけははっきりと耳に届いた。


「これは、人を斬るための刃ではない。世の穢れを祓うための刃だ」


「名を、満月。号を、祓刃(はらいば)


祓刃(はらいば)、満月。


闇の中で、道を示すもの。


私は膝を折った。


「謹んで、頂戴いたします」


両手で刀を受け取る。


腕に確かな重みが沈むが、不思議と手に馴染んだ。


この刀には、宗近様の祈りが宿っている。


その時、宗近様の膝が崩れた。


「宗近様!」


駆け寄ろうとする私を、宗近様は右手で制した。


「ですが、その傷では……!」


「刀鍛冶が戦場に出たところで、できることなど知れておる」


宗近様は血の滲む左肩を押さえ、苦しげに息を吐いた。


「だが、その刃は違う。満月は、託すべき者の手に渡った」


「宗近様……」


「菜垂様。民を守れ。鬼を祓え」


巨椋池の方角で、再び雷光が弾ける。


宗近様は焼けた手を握りしめ、私を見上げた。


「儂に構うな」


その声は、傷ついた者の声ではなかった。


刀を打ち終えた鍛冶師の声だった。


「さあ、行け」


私は唇を噛み、深く頭を下げた。


「はい」


もう、迷っている暇はない。


竜珠の浮揚に意識を込め、地を蹴る。


羽衣が身体の重さを奪い、竜珠の力が身体を前へ押し出した。


今度は上がりすぎない。


先ほど掴んだ感覚のまま、力を反転させる。


まだ不格好だ。


けれど、飛べる。


「玖音。必ず、この刃を届けます」


私は満月を胸に抱き、伏見の夜を翔けた。

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