54話 桜散る伏見
光が暗転し、風の唸りが耳を満たした。
瞼を開く。
だが、突風が視界を遮った。
次の瞬間、無数の桜の花びらが目の前を舞い上がる。
「わっ!」
よろめいた私の肩を、玖音が押さえた。
「いけません。姫様、足元を」
促されるまま、下を見る。
私たちは、建物の屋根の上に立っていた。
瓦を載せた、大きな屋根。
お寺だろうか。
それとも、貴族の邸宅だろうか。
私には分からなかった。
どうやらここは、高台に建つ館らしい。
すぐ近くには桜の木があり、散り乱れる花びらの向こうに、伏見の里が一望できた。
「帰ってきた……現世に」
ジゲンが呟く。
「鬼がいた場所とは、少し離れているようですが」
それでも、間違いない。
ここは京の南、伏見の地だった。
遠くで雷鳴が響く。
次の瞬間、巨椋池の奥で火柱が立ち昇った。
雷ではない。
炎だった。
私は息を呑み、池の方へ目を向ける。
「見て。巨椋池の奥に、何かいるわ」
赤く揺れる炎の中に、一瞬だけ人影のようなものが見えた気がした。
だが、次に見た時には、そこには何もなかった。
「……おかしい」
池の手前を見ていたジゲンが、静かに告げた。
「狼の鬼は、馬の鬼を従えたまま、巨椋池の入り江へ下りています」
「なぜ……水場の方へ?」
「我々が、入り江へ逃げ込んだと見ているのでしょう。水に紛れれば、宇治にも淀にも逃げられます」
ジゲンの言葉が終わるのと同時に、狼の鬼が身を低くした。
水辺の草が大きく揺れ、水煙が上がる。
次に雷が瞬いた時、そこに狼の姿はなかった。
水煙に紛れ、狼の鬼だけが姿を消したのだ。
残された馬の鬼は、雷を纏ったまま水辺に立っている。
まるで、入り江へ続く道を塞ぐ番兵のようだった。
鬼たちは、まだ私たちを見失っている。
けれど、探しても見つからなければ、その苛立ちはいずれ伏見の里へ向けられる。
「急いで追いましょう」
「姫様」
玖音が、低く私を呼んだ。
「何ですか。今は一刻を争います」
「すぐに鬼の前へ出るおつもりですか」
「私には、セイメイから託された竜珠があります。それに、ヴィタの力を宿した神楽刀も」
私は腰の神楽刀に手を添え、手の甲を見せた。
五つの竜珠が、鈍く光っている。
「もう、守られるだけの姫ではありません」
玖音とジゲンが、わずかに視線を交わした。
先に口を開いたのは、玖音だった。
「力があることと、使えることは違います」
続けて、ジゲンが静かに言った。
「今の姫様は、刃を持ったばかりの幼子と同じです」
「では、何もするなと言うのですか」
「そうは申しません」
玖音は傷を押さえながら、伏見の里を見下ろした。
「私は今、陰世の術を酷使できる身体ではありません。だからこそ、今度は姫様を庇えません」
その言葉に、私は唇を噛んだ。
戦いたい。
けれど、戦えるとは限らない。
それは、私自身が一番よく分かっていた。
「……それでも、何もしないで見ているだけは嫌です」
玖音も、ジゲンも答えなかった。
私は伏見の里を見下ろした。
炎が上がっている。
人の声が、風に混じって聞こえた気がした。
「この力が使えるかは分かりません。けれど、立ち止まっていたら何も守れません」
それでも、二人は動かなかった。
玖音の視線が、里の一角に止まっている。
「刀鍛冶の宗近様です」
ジゲンも、同じ場所を見ていた。
「左肩に傷を負っています。姫様は、そちらへ」
その一言で、二人の意図は分かった。
「……私を、戦場から遠ざけるつもりですね」
玖音は答えない。
ジゲンも、目を逸らさなかった。
「姫様は力を得ました。ですが、まだ使い方すら定かではありません」
「今の私では、まだ足手まといになると?」
「そうではありません」
玖音は静かに首を振った。
「分からないのです。今の姫様が、戦えるのか」
ジゲンも頷く。
「分からぬまま鬼の前へ出すのは、最後の賭けにも等しい」
悔しかった。
それでも、私は息を呑み込んだ。
己にできることを、見誤ってはいけない。
なら、私にしかできないことをする。
「私は、もう逃げたくありません」
拳を握り締める。
「今度こそ、二人の力になりたい。けれど、無理に前へ出ることが力になるとは思いません」
二人とも、私をただ見つめていた。
「あの鬼たちに討ち勝つために、宗近様の刀を頂いてきます」
「玖音殿が振るうべき刀を、ですね」
ジゲンが言った。
「はい。今の玖音には、きっと必要になります」
「ですが、あの馬の鬼は雷を纏います。刀では……届く相手かどうか――」
玖音が、ジゲンを射抜くように睨んだ。
ジゲンはそこで口を閉ざした。
「……どうか、お気をつけて」
私は頷き、宗近様のいる里の一角へ目を向けた。
屋根の端を蹴る。
身体が、ふわりと浮いた。
けれど、思うようには操れない。
地面に降りた瞬間、足がもつれ、派手に転びかけた。
それでも、すぐに体勢を立て直し、もう一度浮き上がる。
格好を気にしている暇はなかった。
私は散る桜の中を抜け、宗近様のもとへ向かった。
補足として、本章より一部の表記を以下のように統一いたします。
・竜珠
菜垂姫が持つ五色の珠。竜を象った力であり、手の甲に星形に並んで宿っています。
五色それぞれに異なる力があり、状況に応じて力を発揮します。
・宝珠
八国が魂を五つに分け、鬼たちに与えた珠。
現在は、ジゲン(金色)、赫鬼(蒼色)、宵冥(朱色/現在はセイメイが所持)の所在が判明しており、残る二つの宝珠はまだ所在不明です。
・伏見の里
これまで「伏見の街」と表記していた箇所がありますが、本章より「伏見の里」に統一いたします。




