50話 邪鬼
「あなたが、魔女?」
私が問うと、王が座るような高い座に腰かけた女は、薄く目を細めた。
「確かに、魔女と呼ばれていたこともある」
声はあまりにも遠かった。
遥か彼方から聞こえてくるような、か細い声だった。
私は一歩、前へ踏み出そうとした。
その瞬間、女が杖で床を小突いた。
コンッ。
ただ、それだけだった。
次の瞬間、遠くにあったはずの高い座が、私の目の前にあった。
「きゃっ……!」
思わず声が漏れる。
女が動いたのではない。
その座が、床の上を滑ってきたのだ。
魔女は、値踏みするように私たちを眺めた。
ジゲン。
玖音。
そして、私。
やがて彼女は、もう一度杖を突こうとして――何かを諦めたように手を止めた。
「何の用だ」
乾いた声だった。
セイメイからは、何も教えられていない。
力を奪うか。
縋るか。
いずれにせよ、彼女の何らかの力が必要だった。
すると、ジゲンが一歩前に出た。
「私たちも、詳しくは知らないのです」
合わせるように、私も告げる。
「力を貸していただけませんか」
白の魔女は興味なさそうに、自らの口元を撫でた。
その指先は細く、今にも折れてしまいそうだった。
「私は、お前たちが生きる世に鬼神を生んだ」
その言葉に、ジゲンと玖音が即座に身構えた。
けれど私は、動けなかった。
恐ろしい言葉だった。
けれど、それを口にした彼女には覇気がなかった。
誇りもない。
怒りもない。
ただ、長い罰を受け続けている者のように、静かだった。
「……正しく言えば」
ヴィタは、わずかに目を伏せた。
「その手助けをしてしまった」
そして、彼女は名乗った。
「私の名は、ヴィタ・アンリ・ミカ」
白の魔女は、乾いた唇で告げる。
「聖職者だ」
魔女ではなく、聖職者。
その言葉が、ひどく歪に響いた。
「全ての魂を無に帰す。それが私に与えられた使命だった」
まるで心を空っぽにしたような声だった。
ヴィタは、ゆっくりと語り出した。
自らの過去を。
「私の世界では、魂は消えなかった」
「死者の魂を保管する仕組みが生まれたからだ」
ヴィタは、白い床を杖で軽く撫でた。
「今、お前たちが陰世と呼んでいるこの場所も、その一端にすぎない」
私は、息を呑んだ。
ここが、ただの異界ではないことは分かっていた。
けれど、死者を繋ぎ止めるために作られた場所。
そう聞いた瞬間、先ほど見た者たちの姿が脳裏に蘇った。
踊り、唄い、生きているように見えた者たち。
あれは本当に、人だったのだろうか。
「魂は解放されず、怨嗟だけが世に蔓延った」
ヴィタの声は細い。
けれど、その言葉の重さだけは、はっきりと胸に沈んだ。
「それが、鬼神とどう関係するのですか」
「……それを話しているのだ」
有無を言わせない声だった。
ただ言葉に耳を傾けろと、彼女の目が物語っていた。
「地上は亡者で溢れた」
「だから、必要だった」
「魂を消す存在が」
魂を、消す。
その言葉に、胸の奥が冷たくなった。
人を救うために、魂を消す。
恐ろしい考えだった。
けれど、彼女の世界では、それが救いに見えたのだと分かってしまった。
「その時、私は神の使者を名乗るアシヤという者に導かれた」
アシヤ。
その名を聞いた瞬間、空気がわずかに変わった気がした。
ジゲンも、玖音も、黙っている。
だが、その沈黙は穏やかなものではなかった。
「アシヤは時空を超え、私を連れ回した」
「まさに神の力だった」
「そして、あらゆる世界から、一際強い魂を持つ者たちと契約した」
「力を、集めるために」
ヴィタは、遠い過去をなぞるように言った。
「従えた者たちを眷属とし、苦しむ魂を無に帰す」
「理想郷を実現することだけが、私の願いだった」
願い。
その言葉が、どうしようもなく歪んで聞こえた。
「だから、私は喜んで殺した。誰であろうと」
私は、思わず指先を握りしめた。
喜んで。
この人は、最初から悪意だけで動いたわけではないのかもしれない。
魂を救いたかった。
終われない者たちを、終わらせたかった。
けれど、そのために殺した。
その事実だけは、消えない。
どんな理由があっても、受け入れられなかった。
殺される側にとって、それは救いではないかもしれない。
「いずれ導くから」
「だから、私と共に来てほしかった」
「全ては、神の導きのまま」
ヴィタの声は、祈りのようでもあり、呪いのようでもあった。
私は、彼女がかつてその言葉を誰かに告げた光景を想像してしまった。
救いを信じて。
神を信じて。
私を信じて。
自分の手を、血で染めながら。
「だが、いざ鬼神が生まれると、すべてが違った」
ヴィタの声が、わずかに低くなる。
「無数にあった時空は呑まれ、今残っているのはお前たちの世界だけだ」
「鬼神は、たしかに魂を喰らう存在だった」
「だが、怨嗟は消えていない。鬼神の腹の底で今も、ずっと苦しみ続けている」
「むしろ、喰われた魂は鬼神の中で呪いを生んだ」
私は、背筋が冷えるのを感じた。
魂を消すために生まれたものが。
魂を救うために作られたはずのものが。
喰らった魂の怨嗟を抱え込み、さらに強くなっていく。
それは救いではない。
ただ、苦しみを終わりのない形に変えただけだ。
「話と違う」
ヴィタは、拳を握りしめて小さく呟いた。
その言葉は、あまりにも弱かった。
世界を巻き込み、無数の魂を奪った者の言葉とは思えないほどに。
けれど、その弱さが、かえって本当の後悔のようにも聞こえた。
「アシヤを消そうとした」
ジゲンと玖音が、わずかに反応した。
だがヴィタは、二人を見ることもなく続けた。
「だが知らぬ間に、契りは結ばれていた」
契り。
その言葉に、嫌な響きがあった。
「私は逆らえず、利用された末に殺された」
事実を噛み潰すように告げる。
「そして、魂だけが幽閉された」
「この場所に」
白い空間に、沈黙が落ちた。
ヴィタは、顔を伏せていた。
その姿は、世界に鬼神を生んだ魔女ではなく、疲れ果てた罪人のように見えた。
私は、何を言えばいいのか分からなかった。
憎むべきなのだと思う。
この者は、鬼神の手助けをした。
多くの魂を殺し、喰わせ、呪いに変えた。
その果てに、私たちの世にも災いをもたらした。
けれど。
彼女の罪を聞けば聞くほど、胸の奥に別の感情が生まれていく。
許せない。
でも、ただの悪とは言えない。
救いたかったのだ。
間違えたのだ。
そして、その間違いを取り返すこともできず、ここに閉じ込められた。
私は、ゆっくりと息を吸った。
「……あなたは」
声が震えた。
怒りなのか。
哀れみなのか。
自分でも分からなかった。
「救うために、殺したんですね」
ヴィタの頬を、一筋だけ雫が伝った。
けれど彼女は、それを拭おうともしなかった。
やがて、一言だけ掠れた声で口にする。
「……ああ。神の、名のもとに」




