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49話 魔女

母上の姿を見た瞬間、私は駆け出していた。


「母上……!」


けれど、玖音の声が私を止めた。


「近づいてはなりません」


鋭い声だった。


私は足を止める。


「なぜ……」


「クシナ様そのものではありません」


玖音は、苦しげに言った。


「私の中に残った影です。触れれば、消えます」


息が止まった。


母上は、ただこちらを見つめていた。


昔と同じ顔で。


あの頃と変わらない、優しい眼差しで。


「……母上」


声が震えた。


知らないうちに、涙が零れていた。


視界の端で、ジゲンも動けずにいた。


呆けたように。


信じられないものを見るように。


「母上なのですか」


問いかけても、母上は答えなかった。


ただ、静かに微笑んでいた。


玖音が、ゆっくりと立ち上がる。


「クシナ様」


その声には、確かな緊張があった。


「……逝かれるのですね」


母上は、私ではなく玖音を見た。


そして、微かに笑った。


それだけだった。


母上は背を向ける。


白い光の中へ、ゆっくりと歩き出す。


「待って」


私は手を伸ばした。


「待ってください、母上……!」


けれど、指先が届く前に、母上の姿は音もなく消えた。


残ったのは、白く冷たい通路だけだった。


私は、伸ばした手を下ろせなかった。


胸の奥に、穴が開いたようだった。


玖音が、私の前に立つ。


その表情は、いつになく険しかった。


「この先に、魔女がいます」


「……魔女」


玖音が、私に包みを差し出した。


リン、と小さな音が鳴る。


鈴だった。


「……これは」


「お預かりしていた、クシナ様の形見です」


胸が、強く鳴った。


玖音は、母上が消えた光の奥を見据える。


その横顔は、いつになく苦しげだった。


「……クシナ様は、私たちを止めに来られたのではありません」


「では、なぜ……」


玖音は、包みを握る私の手に目を落とした。


「進め、と」


胸が詰まった。


「ただし、この先を侮るなと」


玖音の声が、低く沈む。


「そう、告げに来られたのだと思います」



少し先へ進むと、扉があった。


巨大な扉だった。


けれど、不思議と威圧感はない。


玖音と二人で扉を押す。


重いはずの扉は、音もなく開きかけた。


その隙間から、音が漏れる。


扉が開くにつれ、その音は大きくなっていった。


幾重にも重なる弦の音。


水面を撫でるような笛の音。


聞いたことのない旋律が、柔らかく耳に触れる。


心地よかった。


恐ろしいほどに。


「……いる」


私は、息を呑んだ。


広間には、大勢の者たちがいた。


死者ではない。


少なくとも、そうは見えなかった。


白い衣を纏った者たちが踊り、笑い、唄を歌っている。


金の杯が掲げられ、花びらのような光が宙を漂っていた。


ここが陰世であることを、忘れてしまいそうになるほどだった。


その奥に、一人の女が腰かけていた。


白い髪。


白い衣。


細い指に握られた、白い杖。


女が、こちらを見た。


遥か遠くにいるはずなのに。


目が合った。


その瞬間、胸の奥が冷えた。


私は、無意識に歩き出していた。


一歩。


踏み出した、その時だった。


女が、杖の先で床を軽く打った。


コン。


ただ、それだけだった。


音が止んだ。


唄も。


笑い声も。


衣擦れも。


杯の鳴る音も。


すべてが消えた。


次の瞬間、広間にいた者たちの姿が消えていた。


私たち三人だけが、そこに残されている。


気づけば周囲は、純白だった。


壁も。


床も。


天井も。


先ほどまでの広間さえ、白に塗り潰されている。


言葉を発することすら、恐ろしかった。


あの者たちは、どこへ行ったのか。


退いたのか。


隠れたのか。


それとも、消されたのか。


分からない。


けれど、分かってしまった。


この女は、眉一つ動かさずに、それをした。


白い魔女は、静かに口を開く。


「よく来た」


その声は穏やかすぎて、恐ろしかった。


「消えゆく星々よ」

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