47話 紫の珠
強風の中で、私は必死に玖音とジゲンの手を握っていた。
空にいた。
冷気が目を焼く。
風が頬を裂き、息を吸うことさえ難しい。
自分がどこへ向かっているのか。
宝珠が力を使っているのか。
それとも、まだセイメイの力が残っているだけなのか。
何も分からなかった。
「姫様!」
聞こえたのは、玖音の叫びだった。
「落ちています!」
落ちている。
その言葉で、全身の血が冷えた。
セイメイに打ち上げられた力が、失われたのだ。
このままでは落ちる。
私の力だけで、浮かなければならない。
そうしなければ、全員死ぬ。
ジゲンは、鬼の力で生き返るかもしれない。
けれど、玖音は違う。
今度こそ、失う。
「力をどう使えばいいかなど、知りません!」
私は半狂乱になって叫んだ。
風が声を奪っていく。
それでも、ジゲンの声が返ってきた。
「自分を信じなさい!」
小さな手が、私の指を強く握る。
「宝珠の使い方なら、私は知っています!」
「宙に浮く姿を思い浮かべるのです!」
ジゲンは迷わず叫んだ。
その言葉に、はっとした。
そうだ。
ジゲンは宝珠を持つ鬼だ。
額に宿した力を、ずっと使ってきた。
「……分かりました」
私は歯を食いしばる。
「やってみます」
浮かぶ姿を思い浮かべる。
風の中で。
落下の中で。
必死に。
ただ、ひたすらに。
――何も起きない。
自分が空に浮く姿など、想像できなかった。
足元のない空。
掴むもののない世界。
身体は重く、心も重い。
浮かぶどころか、落ちていく未来しか思い描けない。
その時だった。
目の前を、白い布が流れた。
ジゲンの羽衣だった。
風に煽られ、肩から外れた羽衣が、私たちの前へ舞い上がる。
ジゲンが咄嗟に髪を伸ばし、それを掴もうとした。
私は、その羽衣を見た。
ひらりと。
空に溶けるように揺れる白。
昔、思ったことがある。
あれなら、空を飛べそうだと。
あの羽衣なら。
どこまでも高く、浮かんでいけそうだと。
次の瞬間。
身体の重さが消えた。
「……っ」
落下が止まった。
いや、完全に止まったわけではない。
けれど、死へ向かう重さが消えていた。
私たちは羽衣に引かれるように、空の中でゆっくりと浮いていた。
手の甲が熱い。
見れば、五つの珠のうち一つが光っていた。
紫の宝珠。
それが、静かに脈打っている。
「あの羽衣が……」
私は震える声で呟いた。
「ジゲンの羽衣に、こんな力が?」
「いいえ」
ジゲンが首を振る。
「これは、姫様の力です」
「私の……」
「姫様は、自分が浮く姿を思い描けなかった。
けれど、あの羽衣が浮く姿なら、思い描けたのでしょう」
ジゲンの羽衣が、私たちの前で風を受ける。
まるで道を示すように。
「姫様のお母上が亡くなられて間もない頃でしょうか」
ジゲンが静かに言った。
「その羽衣で、お空を飛べそうだと。
そう仰っていました」
胸の奥が、わずかに疼いた。
そんなことまで、彼女は覚えている。
「……私自身には、
直接この力を使えないのかもしれませんね」
情けなく笑うと、玖音が小さく息を吐いた。
「姫様らしい」
責める声ではなかった。
呆れた声でもない。
ただ、少しだけ優しい声だった。
羽衣に導かれるように、私たちは天を目指した。
上へ。
さらに上へ。
空は近づくほどに暗くなり、やがて色を失っていった。
雲を越えた先に、建物が見えた。
城。
そう思った。
けれど、すぐに違うと分かった。
それは一つの城ではなかった。
幾千もの塔。
幾重にも重なる門。
空に突き刺さるような尖塔。
それらが、果てしなく連なっている。
「……あれは」
私の声が掠れた。
玖音が答える。
「陰世です」
「ここが……」
「ここから先は、私が案内しましょう」
「玖音が?」
「右へ進めば、門があります」
私は言われた通り、羽衣へ意識を向けた。
羽衣はゆっくりと進む。
あまりに遅い。
老人が歩くよりも遅いのではないかと思うほどだった。
この力で、鬼と戦えるのだろうか。
そう思った瞬間、手の甲の光が揺らいだ。
「迷えば、力も揺らぎます」
ジゲンが言った。
「まずは進むことだけを」
「……はい」
私は息を整えた。
進む。
ただ、それだけを思う。
やがて、玖音の言った通り、巨大な門が現れた。
門の前には、紫の結界が張られていた。
薄い膜のようでありながら、触れれば魂ごと拒まれそうな気配がある。
玖音はジゲンの手を離し、私の手だけを支えに宙へ身を預けた。
そして、片手で印を結ぶ。
「――陰世の術――」
玖音の指先から、影が伸びた。
紫の結界に触れた瞬間、結界は水面のように揺らぎ、静かにほどけていく。
門が、私たちを迎え入れた。
通り抜けた瞬間。
風が消えた。
耳を裂いていた音も。
肌を刺していた冷気も。
すべてが嘘のように消えた。
残ったのは、重い静寂だけだった。




