45話 蒼の珠
日が照らす。
渓谷の頂上。
ルカの巨体が、崖の縁に立つ。
眼下には、底の見えない谷が広がっている。
姫衣もすっかり乾いた。
穴が開いてしまっているけれど……。
空も青い。
それなのに、その谷だけは、光を拒んでいるようだった。
『この先で、お前は出会う』
お師匠様が言った。
「……誰に、ですか」
『魔女だ。この滅びた地で、その名で呼ばれた者がいる』
魔女。
世界が滅んだ、その先。
鳥も虫も、人の声もない場所。
そこに、魔女がいるという。
『その者に会え』
「会えば……伏見へ戻れるのですか」
『戻るには、まず陰世へ至らねばならん』
「陰世……」
その言葉を聞いた瞬間、玖音の気配がわずかに変わった。
「玖音?」
「……私の術式と、深く繋がる場所です」
玖音は静かに答えた。
「影を渡り、身を移す術。その根源は、陰世にあります」
お師匠様が低く笑った。
『根源、か』
玖音の視線が、セイメイへ向く。
「余計な口を挟まないでください」
『事実だ。お前の術式は、陰世に穴を開けて使うものだ』
玖音は答えなかった。
ただ、私の前に半歩ずれた。
「陰世とは、何なのですか」
『都市だ』
「都市……?」
『人の住む街ではない。あらゆる時空と接合された、世界の継ぎ目だ』
風が吹いた。
遠く、黒い鳥のような影が空を横切る。
ぞくり、と背筋が冷えた。
『そこにいる』
お師匠様の声が低くなる。
『平安の世に、鬼神を生み出した者が』
空気が変わった。
『白い魔女と呼ばれた女』
白い垂布が、風に揺れる。
『ヴィタ』
その名が告げられた瞬間、胸の奥に冷たいものが落ちた。
『その魔女に会わねば、現世へは戻れん』
「……敵なのですか」
『違う』
「では、何なのですか」
お師匠様は、少しだけ黙った。
『災いだ』
短い一言だった。
それだけで十分だった。
『会わぬなら、それでもいい』
私は顔を上げる。
『この地で暮らせばいい。三人でな』
『現世が滅ぶ様を、見ずに済む』
『生き永らえるだけなら、不可能ではない』
ジゲンが何かを言いかけた。
けれど、口を閉じる。
『だが、安寧などない』
ルカの耳が小さく揺れた。
胸が詰まった。
遠くで、何かが鳴いた。
鳥ではない。
獣でもない。
空の奥から、金属を裂くような音が響いた。
『戻るか。ここで朽ちるか』
白い垂布の奥から、視線が私へ向けられる。
『どちらを選ぶ』
喉が、渇いた。
逃げ遅れた人たち。
怖かった。
魔女に会うことも。
陰世へ至ることも。
人ではなくなるかもしれないことも。
けれど、それ以上に怖かったのは。
私だけが生き残ってしまうことだった。
私は、震える手を握り締めた。
「行きます」
玖音が、私を見る。
「姫様」
その声には、制止があった。
けれど、私は首を振った。
「私は、帰らなければなりません」
玖音の瞳が揺れた。
「伏見の民は、まだ生きています」
私は続ける。
「たとえ私が、人でなくなろうと」
玖音の指が、小さく震えた。
「民を、町を、救わねばなりません」
風が吹いた。
玖音は、長く私を見ていた。
やがて、静かに目を伏せる。
「……承知しました」
苦しげな声だった。
けれど、従うだけの声ではなかった。
「姫様がそう望まれるなら、私はその道をお供いたします」
「玖音……」
「ただし」
玖音の声が、少しだけ鋭くなる。
「姫様を人でなくすためだけの道なら、私はその場で断ちます」
その言葉は、セイメイに向けられていた。
お師匠様は、しばらく黙っていた。
『気に入らんな』
「何がです」
『その覚悟も。お前の忠義も。全て』
セイメイは私を見た。
『気に入らん』
胸が冷えた。
『だが、嫌いではない』
セイメイは、私の片手を掴んだ。
「……っ!」
『動くな』
お師匠様が言った。
『力を解く』
「力を……?」
『昨夜、聞いていただろう』
息が止まった。
白い垂布の奥から、冷えた視線が私を射抜く。
『下手な寝たふりだった』
玖音の気配が、鋭くなる。
「セイメイ……!」
『選べ、姫君』
お師匠様は、私の手を離さなかった。
『ここで終わるか。人のままではいられぬ道へ進むか』
喉が渇いた。
昨夜の言葉が、胸の奥で蘇る。
受け入れれば、人ではなくなる。
拒めば、この世で終わる。
私は、震える手を握り締めた。
「……解いてください」
玖音が息を呑んだ。
「姫様」
怖かった。
けれど、伏見の民はまだ生きている。
ならば。
「私は、帰ります」
セイメイは、わずかに目を細めた。
『ならば、受け取れ』
次の瞬間、私の右手が焼けるように熱くなった。
「……痛ッ……!」
痛みはすぐに消えた。
代わりに、手の甲へ光が集まる。
色の異なる五つの小さな珠だった。
手の甲には、五つの角を外へ突き出した紋が浮かぶ。
掌に収まるほど小さな、奇妙な陣のようにも見えた。
けれど、真ん中だけが空いている。
「……綺麗」
思わず、そう呟いていた。
『形を変えただけだ』
お師匠様は冷たく言った。
『お前が持てる形にした』
五つの珠が、鼓動に合わせるように震える。
『力は分かれたままだ』
お師匠様は言った。
『不老。浮揚。止癒。疾駆』
『それから――』
その言葉が続く前に、玖音が動いた。
影が揺れた、と思った時には、玖音の手がセイメイの胸倉を掴んでいた。
細い指が、衣を深く握り締める。
「口を慎め」
玖音の声が、鋭く割り込んだ。
「その力を、姫様の前で口にするな」
私は思わず、玖音を見た。
「玖音……?」
玖音は私を見ていなかった。
ただ、セイメイだけを見ていた。
静かな顔。
けれど、その奥には、凍りついた怒りがあった。
『覚えているのか』
玖音の指が、かすかに震えた。
「……それ以上、言を発するなら」
そこで、玖音の声が止まった。
胸の奥が冷えた。
聞きたかった。
残り一つは何なのか。
なぜ、玖音はそこまで拒むのか。
けれど、聞けなかった。
『主が求めた力が不服か』
玖音の息が、わずかに止まる。
『従者よ』
その一言が、玖音を縛った。
やがて、玖音は低く告げる。
「……不服ではありません」
静かな声だった。
「ですが、その力だけは、許されない」
『……気にするな。与えた力は、完全なものではない』
「だとしても、私は認めない」
『……壊れるかは、姫次第だ』
セイメイはそう言うと、玖音の手を払い、その身体を突き返した。
私は、自分の手の甲を見る。
五つの珠。
不老。
浮揚。
止癒。
疾駆。
そして、名を告げられなかった力。
蒼の珠。
それだけが、静かに息をしている。
中心の空洞を見つめていると、何かを思い出しかけているような気がした。
けれど、次の瞬間には。
何を思い出そうとしたのかさえ、分からなくなっていた。




