44話 鈴
目を覚ますと、私は何かの背に乗せられていた。
朝日が眩しい。
「お目覚めになりましたか、姫」
隣に玖音がいた。
顔色は昨夜より戻っていたが、まだ無理をしているのは分かった。
眼下には、豆粒ほどの滝が見える。
私たちを乗せた巨体は、断崖を踏み越え、雲へ向かうように進んでいた。
地鳴りのような振動が、腹に響く。
「……これは、一体」
「ルカです」
「ルカ……?」
見上げると、巨大な獣の頭上にセイメイとジゲンがいた。
白い垂布が、朝日に照らされて揺れている。
「私以外は、一晩中起きていたのですか?」
「いえ。私は休ませていただきました」
玖音は静かに答えた。
「ジゲンが周囲を見ておりました。今の私では足手まといになりますので」
「……身体は?」
「薬草をいただきました。だいぶ楽です」
「苦かったでしょう」
「苦味など、ありませんでした」
即答だった。
そんなはずはない。
あれは、味覚が壊れるほど苦い。
けれど、玖音は平然としていた。
ふと、自分の姿を見る。
身につけているのは、最低限の薄衣だけだった。
ルカの柔らかな毛に身体が沈み、辛うじて冷たい風をしのいでいる。
「……私の衣は?」
「あちらに」
玖音が視線を向ける。
ルカの尻尾と思しき場所に、私の姫衣が干されていた。
朝日を受け、濡れた布がきらめいている。
「母上の……形見が……」
それは、もはや旗印のように風を受けていた。
「血と瘴気を落とす必要があったそうです」
「そ、そう……」
私は小さく咳払いをした。
あまり直視しないことにする。
「なぜルカは、ここまで大きくなっているの?」
「滝の瘴気を食らったそうです」
「……そういうことなのね」
頷いた。
半分も分かっていなかった。
その時、頭上から白い影が落ちてきた。
セイメイだった。
彼は私と玖音の間へ割り込むように立つ。
「ひゃっ!?」
『遅い』
セイメイは私を見下ろした。
『起きたなら周りを見ろ。寝ぼけたまま死ぬぞ』
『瘴気にも、痛みにも、恐怖にも慣れていない。だから弱い』
反論はできなかった。
『その名を脱げ』
「……名?」
『姫だ。守られるための名なら、ここでは邪魔だ』
セイメイは、遥か下を見下ろした。
円環状の崖に囲まれた、底の見えない窪地が広がっている。
陽は差しているはずなのに、そこだけ光が届いていない。
「あれが……谷……?」
『瘴気の届かぬ地だ』
「それよりも、伏見へ戻らなければ、皆が死んでしまいます……!」
『ああ、死ぬだろうな』
あまりにも平坦な声だった。
『俺には関係ない』
「そんな……!」
『お前たちの現世が滅びようが、俺は困らん』
息が詰まった。
「でも、皆、生きてるんです……!」
『だから何だ』
セイメイは言い切った。
『命あるものはいずれ死ぬ。早いか遅いかだ』
声が出なかった。
『だが、火が消えるのか、残るのか。それだけは見届ける』
そこにあるのは、期待でも信頼でもなかった。
冷え切った執着だけだった。
『急ぐ必要はない。現世の時間は動いていない』
「……え?」
『ここがどこだと思っている』
小鳥のさえずりも、虫の音もない。
ただ、風だけが吹いている。
『世界が滅んだ後だ』
胸の奥で、何かが固まった。
「……天国でも、地獄でもなく?」
セイメイは答えない。
「私たちの行き着く先が……この世だというのですか」
その時、甲高い音が空を裂いた。
白く濁りのない空を、黒い影が横切る。
鳥のようだった。
だが、大きすぎる。
翼を広げるたび、空そのものが歪んで見えた。
影が過ぎたあと、不自然な沈黙だけが残る。
セイメイだけが、その景色の中で変わらず立っていた。
それが、何より恐ろしかった。
私は震える声で問いを絞り出した。
「……お師匠様は、なぜ母上と同じ鈴を持っているのですか」
風だけが、私たちの間を通り抜けた。
セイメイは懐から、小さな銀の鈴を取り出した。
母上のものと同じ意匠だった。
けれど、長い時間を越えてきたような鈍い光を帯びている。
『縁があった』
それだけ言った。
『それだけだ』
「母上と……?」
『詮索するな』
冷たい声だった。
セイメイは鈴を差し出した。
『持っていけ。俺には不要だ』
震える手で、その鈴を受け取る。
手の中で、かすかに温もっていた。
鈴が鳴ったわけではない。
それでも、何かがそこにいるような気がした。
「それは、一度、私が預かります」
玖音が静かに手を伸ばした。
「玖音……?」
玖音は答えなかった。
ただ、その鈴を見つめていた。
どうしても手放せないものに触れるように。
玖音は鈴を受け取り、細い布で丁寧に包んだ。
チリン――。
懐へ納めた瞬間、小さく鈴が鳴った。
玖音の胸元で。
まるで、その鈴だけが、長い時を越えて戻る場所を知っていたように。




