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43話 魂

目が覚めた時、夜だった。


赤い月は、まだ空にあった。


ぼんやりと見上げると、玖音が私を膝に乗せていた。


「お目覚めになりましたか」


「……玖音」


声が掠れた。


なぜ、起きているの。


つい先ほどまで、ジゲンの処置を受けていたはずなのに。


そう言いたかったのに、喉が詰まる。


身体が重い。


頭の奥が鈍く痛み、息を吸うたび、喉に苦いものが絡みつく。


瘴気に侵されたのだと、すぐに分かった。


けれど、胸を焼く痛みは薄れている。


呼吸もできる。


ジゲンの聖水が、まだ効いているのだ。


玖音の腹には、清めの布が巻かれていた。


血は滲んでいない。


傷が塞がったわけではない。


毒が消えたわけでもない。


それでも、ジゲンの処置は確かに玖音を繋ぎ止めていた。


「失態を、お許しください」


玖音は、いつもの顔でそう言った。


静かで。


穏やかで。


自分の痛みなど、初めから存在しないみたいに。


違う。


謝るのは、私の方なのに。


そう言おうとして、喉が詰まった。


その前に、玖音の指が私の額に触れた。


冷たい指だった。


けれど、その冷たさが、熱を持った意識を静かに鎮めていく。


「今は、お休みください」


「でも……」


「姫様が案じるべきことは、何もございません」


違う。


案じるに決まっている。


あなたが、まだ傷ついているのに。


あなたの命が、まだ繋がっただけなのに。


そう言いたいのに、声にならなかった。


瞼の裏に、赤い月の光が滲んでいく。


玖音の手が、私の髪を撫でた。


静かで、優しい手だった。


やっぱり。


この子の音は、優しい。


どこまでも寄りかかりたくなるほどに。


けれど、それではいけない。


私が支えなければならない。


そう思うのに、身体は少しも動かなかった。


「玖音……」


呼べたのかどうかも、分からない。


眠りの底へ落ちる、その寸前。


視界の端で、何かが動いた。


赤い月の光を浴びて。


地を這う腕が、こちらへ伸びていた。



玖音の前に、金鹿のルカとジゲンが伏していた。


そして、その向こうに。


師が立っていた。


赤い月の下。


闇よりも深い影を纏い、セイメイがそこにいた。


『お前は、何者だ』


低く、静かな声だった。


それだけで、空気が凍る。


ジゲンが息を呑んだ。


何かを叫ぼうとしたのが分かった。


その前に、玖音が呟く。


「大きな音を立てないでください」


ジゲンの動きが止まる。


玖音は振り返らない。


ただ、私の頭を膝に乗せたまま、静かに告げた。


「姫様が、眠っております」


目の前に師がいて。


ジゲンも、ルカも、動けない。


それでも玖音は、私の眠りを守ることを最初に選んだ。


「師よ」


玖音が言った。


「お久しぶり、と申し上げるべきでしょうか」


静かな沈黙が落ちる。


「それとも、別の名がよろしいですか」


玖音の声が、わずかに低くなる。


「セイメイ」


風が止まった。


『記憶が戻ったのか』


「いいえ」


玖音は静かに首を振った。


「あなたが望んでいる方の記憶ではありません」


セイメイの目が細まる。


『……なぜ、貴様に託したクシナの魂がない』


その名を聞いた瞬間、胸の奥がかすかに疼いた。


母上。


眠りの底に沈みながらも、その名だけは届いた。


「クシナ様の魂は、すでに天へ召されました」


玖音は静かに言った。


「自らの意思で星になられたのです」


セイメイは答えなかった。


長い沈黙のあと、赤い月を見上げる。


『……あぁ』


ひどく遠い声だった。


『やはりか』


玖音は動かない。


セイメイも動かなかった。


「今、私の身に残っているのは、あなたが封じ込めた記憶の残滓だけです」


玖音の手が、私の髪から離れる。


「私は、もはや貴様の傀儡ではない」


その言葉に、意識がわずかに浮いた。


瞼を開けようとした。


けれど、身体は動かなかった。


「桜塚大領の娘、菜垂姫の影」


玖音の声が、夜の底に響く。


「その従者、玖音だ」


胸が震えた。


誇り高く。


悲しいほどに、まっすぐな声だった。


「クシナ様の魂が、もうここにないと知ってなお」


玖音は問う。


「なぜ、私たちの前に現れた」


セイメイはしばらく黙っていた。


やがて、低く答える。


『確かめに来た』


怒りではなかった。


憎しみでもなかった。


もっと深い、底の見えない声だった。


『クシナが、本当に消えたのかを』


玖音は目を逸らさない。


『そして、消えたのなら』


セイメイの声が沈む。


『お前という失敗作を、消すつもりだった』


玖音の表情は変わらなかった。


「なぜ、そうしないのです」


セイメイは、しばらく答えなかった。


赤い月の下で、眠る私を一瞥する。


『あの娘が、お前の命乞いをした』


玖音の瞳が、わずかに揺れた。


『あれほど俺を憎みながらな』


セイメイは、忌々しげに目を伏せた。


『俺は、この姫がどうなろうと知ったことではない』


その言葉は、あまりに冷たかった。


けれど。


まるで、そう言い聞かせているようにも聞こえた。


『だが』


セイメイは、赤い月を見上げる。


『クシナに、顔向けできん』


玖音は、何も言わなかった。


セイメイも、それ以上は語らなかった。


ただ赤い月の下で、玖音を見ていた。


『俺の想定を越えた』


やがて、セイメイは低く呟いた。


『器だったものが』


赤い月の下で、玖音を見据える。


『一つの命になってしまった』


『……あれが、認めたのだろう』


「クシナ様が」


初めて、玖音の声が揺れた。


セイメイは答えない。


『あれは、お前を助けたのではない』


セイメイの声が、低く落ちる。


『その娘を独りにしないために、残した』


胸の奥が熱くなった。


母上。


聞きたいことが、いくつもあった。


けれど、声は出ない。


玖音は長く沈黙した。


やがて、深く息を吸う。


「ならば、なおのこと」


静かな声だった。


けれど、そこには刃があった。


「私は、姫様の傍を離れません」


玖音はゆっくりと立ち上がった。


私の頭を、そっと地に下ろす。


壊れ物を扱うように。


そして、私の前に立つ。


ジゲンとルカの前に。


セイメイの前に。


「たとえ、誰であろうと」


玖音の声が、夜を裂いた。


「姫様に仇なすなら、斬ります」


セイメイは、わずかに笑った。


喜びにも、悲しみにも見える笑みだった。


『やはり、失敗作だ』


そう言って、彼は片手を上げた。


だが、その掌に戦う意思はなかった。


そこから、五つの色褪せた宝珠が落ちた。


朱。


蒼。


黄。


碧。


紫。


かつて竜門と呼ばれた結晶。


ジゲンらとは異なる、山の形を模した珠だった。


そのすべてが黒ずみ、光を失っている。


『気づかないか』


玖音の目が細まる。


「……何を」


『もはや、俺には竜門の力がない』


玖音の息が止まった。


『姫君が俺の首を折った時、すでに移した』


赤い月の下で、黒ずんだ宝珠が鈍く光る。


『不老の力も、一部だがな』


「託す、とでも言うおつもりですか」


セイメイは鼻で笑った。


『馬鹿を言うな』


その声には、疲れが滲んでいた。


『俺は降りたいだけだ』


『終わりのない、この地獄を』


玖音は黙っている。


私は眠りの底で、ただ聞いていた。


『慈悲ではない。継ぐかは、その姫が選ぶ』


「姫様を、これ以上巻き込むおつもりなら」


『すでに遅い』


セイメイは遮った。


『死ぬか、生きるかだ』


赤い月が、濁った空に浮かんでいた。


瘴気が揺れる。


『受け入れれば、姫君は人ではなくなる』


セイメイは告げた。


『拒めば、お前たちはこの世で終わる』


玖音の肩が、わずかに強張った。


私は、それを見ていた。


名を呼ぼうとした。


けれど、口は動かなかった。


意識が、遠のいていく。


玖音。


そう呼べたのかも、分からない。


私はそのまま、泥の底へ沈むように眠りに落ちた。

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