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42話  「罪」

城中に、鐘が響いた。


鬼が抜け出した。


そう叫ぶ声が、

城のあちこちから上がっていた。


兵が走る。


女中が悲鳴を上げる。


陰陽師たちが、

慌ただしく札を手にして廊下を駆けていく。


けれど。


私には、

その騒ぎなどどうでもよかった。


鬼が逃げた。


そう言われているものは、

今、私の目の前にいる。


牢の奥ではなく。


私の傍に。


私は玖音の髪を梳いた。


長く伸びた黒髪に、

櫛を通す。


絡まった髪をほどき、

濡らした布で顔を拭う。


頬。


首筋。


手の甲。


指先。


汚れを落とすたび、

玖音は少しずつ人の姿へ戻っていくようだった。


いや。


違う。


戻っているのではない。


初めて、

人として整えられているのだ。


「じっとしていて」


「……うん」


玖音は、

素直に頷いた。


私は黒衣を広げる。


母上が、

生前身に着けていたものだった。


神楽を舞うためだけにあつらえたもの。


喪の色にも似た黒。


けれど、

母上が纏うと、

夜そのものを従えているように見えた。


それを、

玖音へ着せる。


さらに、

顔を隠すための面を与えた。


白い半面。


表情を隠し、

素性を隠し、

恐れを遠ざけるためのもの。


最後に。


一振りの刀を、

玖音の腰へ差した。


母上が遺した刀。


本当は、

私が触れていいものではなかった。


けれど、

迷いはなかった。


玖音には、

形が必要だった。


名だけでは足りない。


人として、

そこに立つための姿が。


「これでいい」


私は玖音の手を取った。


「行くわよ、玖音」


「……どこへ」


「父上のところ」


城内は混沌としていた。


誰もが、

逃げた鬼を探していた。


けれど、

誰も気づかない。


その鬼と呼ばれた娘が、

姫の隣を歩いているなど。


面を着け、

黒衣を纏い、

刀を差した姿で。


広間へ入ると、

父上は御前にいた。


周囲には兵と陰陽師たち。


誰もが張り詰めた顔をしている。


私は父上の前に進み出て、

膝をついた。


「このような時に申し訳ありません。

 この菜垂、一生のお願いがございます」


父上の視線が、

私を射抜いた。


「何だ」


「従者を一人、

 傍に付けたいのです」


広間が静まり返った。


「従者だと?」


「はい」


私は振り返る。


「さあ、玖音。こちらへ」


玖音は、

一歩進み出た。


面を着けたまま、

ぎこちなくも作法を守り、

私の隣に膝をつく。


「……玖音?」


父上が呟く。


「誰だ」


玖音は、

畳に額が触れるほど深く伏せた。


「玖音で、ございます」


父上の目が細くなる。


「面を取れ」


広間の空気が凍った。


玖音は一言だけ答えた。


「御意に」


そして、

ゆっくりと面を外した。


黒衣の下。


現れた顔を見た瞬間、

父上は息を呑んだ。


「は……」


その声は、

城主のものではなかった。


妻を失った父の声。


「ク、クシナ……」


広間がざわめく。


私はすぐに首を振った。


「父上」


父上の瞳が、

私へ戻る。


長い沈黙の後、

深いため息が落ちた。


「それで」


父上は、

玖音の黒衣と刀を見る。


「なぜ、その衣と刀を身に付けている」


「私が与えました」


「菜垂か」


父上の声が低くなる。


「なぜだ。

 誰にも譲らぬと申していたではないか」


私は拳を握った。


ここで怯えてはならない。


言い切るしかない。


「それほど、この者を信頼しているのです」


「どこの家の者だ。

 どうやって近づいた」


その問いに、

喉が詰まった。


答えられない。


玖音がどこから来たのか。


何者なのか。


本当は、

何も分からない。


私が口を開こうとした時だった。


玖音が、

先に声を発した。


「家などありません。

 私は菜垂の影にございます」


広間が静まり返る。


玖音は、

まっすぐ父上を見ていた。


恐れも。


媚びも。


迷いもない。


ただ、

自分に与えられた役目を、

真剣に差し出していた。


私は、

その隙を逃さなかった。


「私には、彼女が必要です」


父上は即座に言った。


「他の者を付ける」


「なりません」


私は首を振った。


「この方でなければ、

 守られたくありません」


無理筋だと分かっている。


けれど、

こう言うしかなかった。


「今後は稽古も逃げません」


私は、

もう一度深く頭を下げる。


「どうか。

 お願いします」


沈黙が落ちた。


長い。


長い沈黙だった。


やがて父上が、

玖音を見つめ、

私にしか聞こえない程、

低く呟いた。


「……斬り捨てるべきだったな」


私は顔を上げた。


その一言で、

気づいてしまった。


父上は、

初めから知っていたのだ。


この玖音が牢の娘であることも。


私が何をしようとしていたのかも。


それでも父上は、

私の願いを聞いた。


玖音を見逃したのではない。


私を、

見逃したのだ。


父上は玖音を見下ろしていた。


「玖音と申すか」


「はい」


「貴様に、

 菜垂の影として仕える任を与える」


「菜垂が死ぬ時は、

 貴様も死ぬ時と心得よ」


玖音は深く頭を下げる。


「御意――」


玖音がそう答え、

頭を上げた、その瞬間だった。


父上の手が、

刀の柄へ伸びた。


抜刀。


銀の線が、

私へ向かって走る。


「――ッ!」


死ぬ。


そう思うより早く、

黒衣が視界を覆った。


玖音が、

私の前へ身を投げていた。


刃は、

玖音の首筋寸前で止まっていた。


広間に悲鳴が上がる。


私は動けなかった。


玖音は震えていない。


ただ、

私を庇うように両腕を広げ、

父上の刃を見上げていた。


父上は、

刀を止めたまま目を細める。


そして。


「己の命より先に、

 主を守ったか」


そう言った。


刀が鞘へ戻る。


「よかろう」


「今日よりこの者を、

 菜垂の従者とする」


その言葉が、

広間に落ちた。


陰陽師たちは不服そうに俯き、

兵たちは戸惑いながらも膝をついた。


それでも、

誰も逆らわなかった。


城主である父上が決めたのだから。


こうして、

私たちは姫と従者になった。


   ◇


それから、

多くの苦難を越えてきた。


あの日、

牢から抜け出した娘が玖音なのではないかと、

疑いの目を向けられることもあった。


陰口。


敵意。


恐れ。


何度も、

引き離されそうになった。


何度も、

玖音は鬼だと囁かれた。


けれど玖音は、

いつも私の傍にいた。


私が眠れない夜も。


母上の夢を見て泣いた朝も。


誰にも言えない言葉を、

玖音だけが聞いてくれた。


そして私は、

何度も玖音の名を呼んだ。


玖音。


あなたは鬼ではない。


災いではない。


虚ろの子などではない。


あなたは、

玖音だ。


私の影。


私の従者。


私の――


言葉にできないほど、

大切な人。


玖音は、

私の影になった。


そう望んだから。


けれど、

玖音は自分で選んでいない。


私が、

その在り方を必要としたから。




そして彼女は、

それを疑わなかった。


自分が何者かも知らなかったから。


ただ、

私の言葉だけを信じていたから。


だから。


今、あの赤い月の下で。


血に濡れた玖音が、

消え入りそうな声で私を呼んだ時。


――菜垂。


私は、

あの日の牢を思い出した。


暗がりの奥。


名もなく。


声もなく。


ただ、

私の手を握ろうとしていた少女。


私はあの日、

玖音を外へ連れ出した。


自由を、

彼女に与えたかった。


けれど父上は玖音に言った。


菜垂が死ぬ時は、

貴様も死ぬ時と心得よ、と。


その言葉とは裏腹に、

神楽の夜に死んだのは私だった。


毒に倒れた玖音の代わりに、

玖音として連れ出され、

殺されたのは、私。


だから玖音は、

ずっと自分を許せずにいる。


あの時、共に死ねず、

死骸になった私を見つけた玖音は、

どんな思いで私を抱いたのだろう。


私の影であろうとして、

今もなお、

あの日の罪を償い続けている。


私は本当に彼女を、

自由にしたことなど。


一度でも、

あったのだろうか。


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