41話 「影」
私はこの日、
ある決意をした。
玖音を、
この牢から出す。
この子が鬼ではないと。
災いなどではないと。
誰かに管理されるだけの存在ではないと。
私が証明する。
父上にも。
陰陽師たちにも。
城の者たちにも。
そして、
玖音自身にも。
あなたは、
ここにいていいのだと。
私は、
そう伝えたかった。
「玖音」
もう一度、
その名を呼ぶ。
玖音は顔を上げた。
「あなたは、玖音よ」
私は格子の隙間から、
彼女の手を握った。
細くて、
冷たい手だった。
けれど、
もう空っぽではない。
そこには、
私の名を聞き。
私の言葉を覚え。
自分の名を欲した者がいた。
「私が、あなたを外へ出す」
玖音は、
黙って私を見つめている。
意味が分からないのか。
信じていないのか。
それでも私は、
言い切った。
「だから、待っていて」
その言葉に、
玖音の指がわずかに動いた。
握り返すには、
あまりにも弱い力。
けれど。
確かに、
私の手を掴もうとしていた。
私はもう、
この子を見捨てられなかった。
たとえ父上に叱られても。
ジゲンに止められても。
陰陽師たちに、
この子は鬼だと言われても。
私だけは、
玖音の名を呼び続ける。
この子が、
自分を見失わないように。
この子が、
二度と虚ろへ戻らないように。
「大丈夫」
何の根拠もなかった。
何一つ、
大丈夫ではなかった。
それでも私は、
そう言うしかなかった。
「私がいるわ」
玖音は、
しばらく私を見つめていた。
そして。
本当に小さな声で、
初めて私の名を呼んだ。
「……菜垂」
その一言で、
私は泣きそうになった。
母上を失ってから、
ずっと空いていた胸の穴に、
何かが落ちた気がした。
神様なんていない。
そう思っていた。
祈っても、
誰も助けてはくれない。
そう恨んでいた。
けれど。
この暗い牢の中で。
名もなく、
飢え、
世界から拒まれていたこの子が、
私の名を呼んだ。
それだけで。
私は、
まだ何かを信じてもいいのかもしれないと思った。
◇
私は、一つ噂を流した。
鬼の食事を奪った者は、
地獄に落ちるらしい。
玖音を鬼と呼ぶ者たちは、
その噂だけは信じた。
それから間もなく、
玖音は変わった。
食事を与えられ。
言葉を覚え。
少しずつ、
人の姿へ近づいていった。
けれど、
その変化はあまりにも早かった。
覚えるのも。
食べるのも。
成長するのも。
人が何年もかけて育つところを、
玖音はたった数日で追いかけているようだった。
私はそれを恐ろしいと思った。
それでも、
見ないふりをした。
玖音が元気になるなら。
玖音が笑えるようになるなら。
それでいいと思っていた。
ある日。
いつも通り、
私は玖音の元へ向かった。
手には、
小さな包みを持っていた。
甘い干し柿。
玖音が、
初めて「好き」と言ったものだった。
「玖音」
声をかけ、
牢の前で足を止める。
そこにいたのは、
見知らぬ少女だった。
いや。
少女というには、
少し大人びていた。
長く伸びた髪。
伏せられた睫毛。
静かに閉じられた瞳。
痩せてはいる。
囚人の衣を纏っている。
それなのに、
どこか気品があった。
暗い牢の中にいるのに、
そこだけ月明かりが落ちているように見えた。
私は息を呑んだ。
美しい。
そう思ってしまった。
けれど次の瞬間、
胸の奥が凍った。
似ている。
母上に。
顔立ちではない。
雰囲気でもない。
もっと深いところ。
静かに目を閉じ、
何もかもを受け入れているような佇まいが。
どこか、
母上に似ていた。
「……だれ」
声が震えた。
その娘が、
ゆっくりと瞼を開ける。
黒い瞳が、
まっすぐ私を見た。
そして。
「菜垂」
私の名を呼んだ。
その声音。
その響き。
間違えるはずがなかった。
「まさか……玖音……?」
玖音は、
すっと立ち上がった。
以前より背が伸びている。
髪も長い。
声も、
少し低くなっている。
けれど。
私を見る目だけは、
あの日のままだった。
私は格子へ近づいた。
玖音も、
こちらへ歩み寄る。
そして、
格子の隙間から手を伸ばした。
冷たい指が、
私の頬に触れる。
次の瞬間。
玖音の輪郭が、
黒く揺らいだ。
炎のように。
影のように。
その身体が、
格子の内へ溶けていく。
「……ッ!?」
ありえない。
人の身体なら、
そこを通れるはずがない。
けれど玖音は、
牢から出て、私を抱きしめた。
「優しい音がする」
玖音は、
何事もなかったようにそう言って、
静かに微笑んだ。
その笑みを見た瞬間、
胸が詰まった。
この術を知っている。
母上の陰陽術。
やはり母上が帰ってきた。
一瞬、
本気でそう思ってしまった。
そんなはずがないのに。
死んだ人は戻らない。
神様なんていない。
祈っても、
母上は帰ってこなかった。
それなのに。
同じ顔の娘。
母上に似た声。
私の名を呼ぶ唇。
優しい音がすると、
私に触れる手。
自然と涙が頬を伝った。
私は、
思いついてしまった。
玖音が鬼だから閉じ込められているのなら。
玖音が人ではないから恐れられているのなら。
ならば。
人にしてしまえばいい。
名を持ち。
言葉を持ち。
心を持ったのなら。
それはもう、
鬼ではない。
そう言い張ればいい。
私は、
玖音の手を握った。
「玖音」
「うん」
「あなたは、私の――」
そこまで言って、
言葉が止まった。
友。
どこか違う気がした。
この子を外へ出すには、
それ以上の形が必要だった。
父上も。
陰陽師も。
城の者たちも。
納得するだけの形が。
だから私は、
笑って言った。
「あなたは、
私の影よ」
玖音は瞬きをした。
「影?」
「そう」
私は頷いた。
「姫には、影が必要でしょう?」
そんな決まりなど、
どこにもない。
けれど、
もっともらしく言えば通る気がした。
「あなたは鬼なんかじゃない」
私は玖音の手を握る。
「私の傍にいるために現れた、
私だけの影」
玖音は、
じっと私を見つめていた。
その目に、
疑いはなかった。
ただ、
私の言葉を受け止めようとしていた。
「外へ、出てもいい?」
「出られる」
私は即答した。
根拠なんてない。
でも、
言い切った。
「私が、そうする」
玖音は、
その言葉を何度も確かめるように、
静かに繰り返した。
「私は、菜垂の影になる」
その声を聞きながら、
私は思った。
これでいい。
これなら、
玖音を外に出せる。
この子を、
人の世界へ連れ出せる。
けれど。
私はこの時、
玖音に名を与えたつもりで、
今度は役目を与えてしまった。
玖音という一人の存在を、
私の影という形に押し込めた。
それが、
後にどれほど深く彼女を縛るのか。
この時の私は、
まだ知らなかった。




