40話「名」
暗がりの奥に、
ひとりの孤児が閉じ込められていた。
顔も見えない。
声も聞こえない。
ただ、
そこに誰かがいる。
それだけだった。
あの頃の私は、
母上を失ったばかりだった。
誰ともまともに話さず、
世界のすべてを恨んでいた。
神様なんていない。
祈ったところで、
誰も助けてはくれない。
そんなことばかり考えていた。
だから、
牢の奥にいる誰かのことなど、
本当はどうでもよかった。
けれど。
その娘は、
私と同じ顔をしているのだという。
ある日、
父上の御前に現れた。
誰も通していない。
誰も招いていない。
それなのに、
その娘はそこに立っていた。
私と瓜二つの顔で。
最初は、
皆が私だと思ったらしい。
けれど、すぐに違うと知れた。
同じ顔。
同じ背格好。
けれど、
私ではない。
それを知った瞬間、
人々は恐怖した。
――鬼だ。
誰かが、
そう言った。
一度そう呼ばれてしまえば、
あとは早かった。
陰陽師たちが集められ、
占が立てられた。
この娘を生かせば、世が荒れる。
国は乱れ、
やがて世界は滅ぶ。
だから殺せ、と。
けれど父上は、
彼女を殺さなかった。
牢へ閉じ込め、
厳重に管理することを選んだ。
なぜなのかは、
今でも分からない。
私と同じ顔の娘を、
自分の命令で殺せなかったのかもしれない。
あるいは。
その娘の姿に、
母上を失った私を重ねたのかもしれない。
けれど当時の私は、
そんなことを考えもしなかった。
私は、
太い木組みの格子の前に立った。
暗がりの奥。
膝を抱え、
壁にもたれるように座る娘。
髪は乱れ、
頬は痩せ、
生気など感じられなかった。
「あなたは……だれ」
問いかけた声が、
石壁に小さく響いた。
返事はなかった。
「聞こえているの?」
沈黙。
「名前は?」
それでも、
何も返ってこない。
髪の隙間から覗く瞳は、
どこにも焦点が合っていなかった。
私を見ているのに、
見ていない。
生きているのに、
そこにいない。
そんな目だった。
私は少しだけ、
ぞっとした。
けれど同時に。
なぜか、
目を離せなかった。
「……変なの」
ひどい言葉だった。
けれど当時の私には、
それ以上の言葉を知らなかった。
それが、
玖音との出会いだった。
私がまだ、
彼女の名を知らなかった頃。
クオンもまた、
玖音ではなかった頃のお話。
◇
それから数日後。
私は、
また牢へ向かった。
手には、
おにぎりを握っていた。
いけないことだとは分かっていた。
けれど。
あの子のお腹の音が、
どうしても耳から離れなかった。
格子の隙間から、
おにぎりを差し入れる。
その瞬間。
彼女の両手が、
私の掌ごとおにぎりを覆った。
冷たい指。
痩せた手。
けれど、
その力だけは異様に強かった。
彼女は、
おにぎりに食らいついた。
米粒を落とすことすら惜しむように。
指についた塩まで、
必死に舐め取るように。
まるで、
食べ方を知らない獣のようだった。
怖い。
そう思った。
けれど。
それ以上に、
胸が痛かった。
私は気づけば、
涙を零していた。
彼女は、
そんな私のことなど見ていなかった。
ただ、
食べていた。
生きるために。
飢えを満たすために。
すべてを呑み込むように。
やがて、
おにぎりは跡形もなく消えた。
私は、
もう一つのおにぎりを握りしめたまま、
彼女を見つめた。
「……これも、食べたいの?」
彼女は、
小さく頷いた。
「……!」
胸が跳ねた。
今までどれだけ話しかけても、
何の反応も示さなかったのに。
頷いた。
私の言葉に、
答えた。
私は、
少しだけ身を乗り出す。
「これをあげる代わりに、答えて」
彼女は、
じっと私を見ている。
「あなたは、鬼なの?」
首を横に振った。
「じゃあ、人間?」
また、
首を横に振る。
背筋に冷たいものが走った。
鬼ではない。
人間でもない。
なら。
「……あなたは、なんなの?」
彼女は、
また首を横に振るだけだった。
知らないのだ。
自分が何なのかも。
私は、
もう一つのおにぎりを差し出しかける。
けれど、
その前に尋ねた。
「じゃあ……名前だけでも教えて」
彼女は黙っている。
私は苦笑した。
「……って、喋れないのかな」
その時だった。
彼女の唇が、
かすかに開いた。
「……ク……」
私は耳を近づける。
「……オ……」
掠れた息。
途切れそうな声。
「……ン……」
私は、
その音を繋げた。
「クオン?」
彼女は、
何も答えなかった。
けれど。
ほんの少しだけ、
指先が震えた。
クオン。
それが名前なのか、
ただの音なのか。
私には分からなかった。
けれど、
その響きはどこか懐かしかった。
母上の名と、
少しだけ似ている気がした。
クシナ。
クオン。
本当に、
それだけだったのに。
私は、
彼女のことが気になって仕方なくなった。
怖かったはずなのに。
得体が知れなかったはずなのに。
放っておけなかった。
◇
その日を境に、
人目を盗んでは牢へ通った。
おにぎり。
干した果物。
小さな菓子。
時には、
水を入れた竹筒。
クオンは、
最初は獣のように食べた。
言葉もなく。
礼もなく。
ただ、
生きるために呑み込んだ。
けれど。
少しずつ、
変わっていった。
私が来ると、
顔を上げるようになった。
私の足音に、
反応するようになった。
私の声を、
待つようになった。
だから私は、
クオンに言葉を教えた。
「これは、水」
「……み、ず」
「これは、手」
「……て」
「これは、食べる」
「……たべる」
クオンは、
呑み込みが早かった。
最初は音を真似るだけだった。
けれど、
やがて意味を覚えた。
水が欲しい時は、
水と言う。
寒い時は、
寒いと言う。
痛い時は、
痛いと言う。
私は嬉しかった。
言葉を覚えるたびに、
クオンが少しずつこの世に近づいてくるような気がした。
ある時、
私は紙に自分の名を書いて見せた。
菜垂。
「これが、私の名よ」
クオンは、
じっとその文字を見つめた。
「なたれ」
「そう」
私は笑って、
今度はひらがなで書いた。
な、た、れ。
さらに、
カタカナでも書いた。
ナ、タ、レ。
「同じ音でも、
書き方が違うの」
クオンは、
黙って紙を見つめていた。
私は少し得意になって、
今度は筆で漢字を書いた。
菜垂。
「漢字には、意味があるのよ」
「……いみ?」
「そう。
母上が言っていたわ」
私は、
紙の上の二文字を指でなぞった。
「菜は、
大地に芽吹いて、命を養うもの」
それから、
もう一つの字に触れる。
「垂は、
天から恵みが降ること」
母上の声を、
少しだけ思い出す。
あたたかくて、
やわらかい声。
どうかこの子が、
枯れず、折れず、
大地に根を張って生きられますように。
天から垂れる恵みのように、
誰かを潤し、
誰かに愛される子でありますように。
「だから、菜垂」
私は、
少し照れながら笑った。
「それが、私の名」
クオンは、
じっとその文字を見つめていた。
やがて、
ゆっくりと自分の胸に触れる。
「……クオンには」
小さな声だった。
「意味が、ない」
私は言葉を失った。
「……名がない」
ぽつりと、
クオンは呟いた。
あれは。
初めて自分の空白を見つけてしまった顔だった。
「私の、意味は?」
その言葉に、
胸が詰まった。
思考できるようになって初めて、
この子は自分という存在を自覚してしまった。
そして同時に、
己の異常ささえも知ってしまった。
鬼ではない。
人でもない。
名もない。
どこから来たのかも分からない。
何のために生まれたのかも分からない。
私と同じ顔をしているのに、
私ではない存在。
「クオンは、クオンよ」
私は言った。
「他の何者でもないわ」
けれど、
その言葉はあまりにも弱かった。
クオンは俯いたまま、
小さく尋ねた。
「……私は、鬼なのか?」
違う。
そう言いたかった。
けれど、
言えなかった。
私にも分からなかったから。
それでも私は、
格子の隙間から手を伸ばし、
クオンの頬に触れた。
冷たい頬だった。
けれど、
確かにそこに温もりがあった。
「少なくとも、
私は人だと思うわ」
クオンが、
ゆっくりと顔を上げる。
「だって、
こんなに優しそうな音がするんだから」
そう言って、
私は微笑んだ。
クオンは、
しばらく何も言わなかった。
やがて。
小さく、
掠れた声で言った。
「私に、意味をください」
その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥で何かが震えた。
ただの呼び名ではない。
この子が、
この世にいるための証。
私は筆を取った。
そして、
紙に文字を書いた。
玖音。
「玖は、黒く光る美しい石」
私は、
自分でも驚くほど静かな声で言った。
「音は、あなたの中にある優しい響き」
クオンは、
じっとその文字を見つめていた。
「玖音」
私は呼んだ。
「あなたの名よ」
その瞬間。
クオンの瞳が、
初めて揺れた。
泣いたわけではない。
笑ったわけでもない。
けれど、
確かに何かが宿った。
牢の暗がりの中で、
彼女は小さく口を開いた。
「……玖音」
自分の名を、
確かめるように。
「私は……玖音」
その日から。
クオンは、
玖音になった。




