39話 甦る音
ジゲンは玖音の傍らに膝をつく。
「玖音殿を、こちらへ」
私はすぐには動けなかった。
手放すのが怖かった。
この腕から離した瞬間、本当に玖音が死んでしまう気がした。
「助けるためです」
その言葉で、ようやく腕の力が抜けた。
私は玖音を、ジゲンの前へ横たえる。
腹部の布は、赤黒く濡れていた。
ジゲンは傷口へ手をかざす。
額の宝珠が、淡く光った。
「傷の片側を、ご自身で押さえておられたのですね」
ジゲンが静かに言う。
「そのおかげで、外へ流れる血だけは、わずかに抑えられていた」
「それで……助かったのですか」
『助かってはいない』
セイメイが答えた。
『死ぬのが遅れただけだ』
私は息を呑む。
「……何者ですか」
「この方は玖音の師、セイメイ。
私達をこの世へ導いた方です」
「セイメイ?
……陰陽師の、ですか」
そういいつつ作業は止めない
ジゲンは玖音の衣を裂き、傷を確かめた。
「毒が深い。
傷も浅くありません」
ジゲンの声は落ち着いていた。
けれど、その指先に迷いはなかった。
「ルカ」
呼ばれた大鹿が、静かに前へ出る。
骨を纏った金色の身体。
深い闇を映す瞳。
その巨体が玖音の傍らに首を下げると、角の内側から淡い金の光が零れた。
「血を止めます。
毒は今ここで完全には抜けません。
ですが、命へ届く流れは遅らせます」
「お願い……」
私は縋るように言った。
「玖音を、助けて……」
ジゲンは一瞬だけ私を見る。
その顔から、幼さは消えていた。
「必ず、お助けします。」
宝珠の光が強まる。
ルカの角から零れた光が、ジゲンの髪を照らした。
毛先がほどけるように伸び、玖音の傷をなぞる。
その瞬間、流れ続けていた血が止まった。
赤く濡れた布が、ゆっくりと色を失っていく。
玖音の喉が、小さく震えた。
「……っ」
ジゲンの術により、
確かに、傷が塞がっていく。
「玖音……!」
私は身を乗り出す。
けれど、ジゲンが手で制した。
「まだ触れてはなりません。
傷を閉じているだけです」
「でも、今……」
「ええ」
ジゲンは頷いた。
「まだ、生きています」
その一言で、膝から力が抜けた。
涙が零れる。
玖音は目を覚まさない。
けれど、さっきよりも呼吸が深くなっていた。
ジゲンはルカの背に結ばれていた布を解き、
清められた布で玖音の腹部を巻く。
「応急です。
ここで長くは持ちません」
『この地は、毒そのものだ。
治したそばから命を削る』
セイメイが言った。
ジゲンはセイメイを見る。
「その傷を知りながら、ここまで歩かせたのですか」
『歩かねば死んでいた』
「歩いても死にかけていました」
『だから、お前を呼んだ』
ジゲンはそれ以上、責めなかった。
今は、玖音を生かすことが先だった。
私は震える手で、玖音の指先に触れる。
冷たい。
けれど、そこに命があった。
「……よかった」
声にならない声が漏れた。
その時、喉の奥が焼けるように痛んだ。
「姫様」
ジゲンが竹筒を差し出す。
「常備の薬草を練り込ませた聖水です。
お飲みなさい」
私は両手で受け取った。
ジゲンは玖音の唇をわずかに湿らせる。
「玖音殿をこの手で治せる日が来るとは」
彼女の頬が、かすかに微笑んだ。
それを見届けてから、私は竹筒に口をつける。
冷たい聖水が、喉を通った。
焼けていた喉が潤う。
胸の痛みが、少しだけ楽になる。
「……おいしい」
思わず呟いた。
ジゲンの表情が、わずかに緩む。
「瘴気の水など、
姫様に飲ませるわけがありません」
その背後で、金色の大鹿がこちらを見ていた。
骨を纏った異形の姿。
けれど、その瞳は澄んでいる。
「ジゲン……その鹿は?」
「私の半身を分けた存在です。
名は、ルカ」
「ルカ……」
呼ぶと、大鹿は嬉しそうに首を揺らした。
「やっと会えたねー!
ボクと、いっぱい遊ぼーっ!」
場違いなほど明るい声だった。
私は瞬きをする。
「……喋ったわ」
「人の姿も取れます。
今は、この姿でいたいのでしょう」
「……なぜ?」
ジゲンはあっさりと言った。
「おそらく、格好をつけたいのです」
「格好を……」
私はルカを見上げる。
骨を纏った金色の大鹿は、なぜか得意げに胸を張っていた。
触りたい。
けれど、今はそれどころではなかった。
私は玖音を見る。
血は止まっている。
それでも、玖音は眠ったままだ。
「玖音は……目を覚ますのですか」
「すぐには難しいでしょう」
ジゲンは静かに答えた。
「毒が残っています。
傷も深い。
ですが、今すぐ命が尽きることはありません」
その言葉に、ようやく息ができた。
完全に助かったわけではない。
それでも、玖音は死ななかった。
今は、それだけで十分だった。
ジゲンの視線が、セイメイへ向く。
「それより、妙な気配ですね
まるで死人のようだ」
『酷い言い草だな』
セイメイは薄く笑う。
「あなたが、私をここへ呼んだと?」
ジゲンの視線が、セイメイの仮面へ向けられる。
竜門。
そこに刻まれた五つの珠。
それは、宝珠に酷似していた。
ジゲンの表情が変わる。
「宝珠……?」
セイメイは、ジゲンの額に埋め込まれた宝珠を指さした。
淡い光が、命のように脈打っている。
『その珠は、俺が桜塚家に奉納した代物だ』
「……私が鬼になっても、
自我を保てたのは、あなたの差し金か」
ジゲンが呟く。
『相変わらず察しがいいな。
――時の宝珠に選ばれただけはある』
私は二人を見比べた。
時の……宝珠?
セイメイは、玖音だけではなく、ジゲンのことも知っていた。
ずっと昔から。
「……なぜです。
あなたは今まで、どこに」
ジゲンが問う。
セイメイは短く答えた。
『今はいい』
それ以上は語らない。
そう決めている声だった。
セイメイは鈴を掲げ、天へと傾ける。
チリン――。
場が静まり返った。
掌を合わせ、一拍。
パァン。
乾いた音が、赤い月の下に響く。
鈴が、リ、リ、リン……と鳴り続ける。
私はその音を聞きながら、玖音の横顔を見る。
まだ目は覚まさない。
けれど、息をしている。
手を握る。
確かに、鼓動があった。
その音で、私はようやく目を閉じた。
リ、リ、リン。
鈴の余韻だけが、瘴気の谷に残る。
「……玖音」
その名を呟いたつもりだった。
けれど声にはならず、私はそのまま意識を手放した。
沈んでいく。
赤い月も。
濁った空気も。
瘴気の谷も。
ジゲンの声も。
セイメイの鈴の音も。
すべてが遠ざかっていく。
最後に残ったのは、手の中の感触だけだった。
冷たい指。
けれど、確かに鼓動のある手。
私はそれを離さなかった。
離せなかった。
玖音。
その名を、胸の奥で何度も呼ぶ。
どうして私は、この手を失うことを、こんなにも恐れているのだろう。
そんなこと、考えるまでもなかった。
私は知っている。
ずっと昔から。
まだ彼女が、玖音ではなかった頃から。
闇の底で、記憶が開く。
石の匂い。
冷えた床。
格子。
暗がりの奥に座る、ひとりの子供。
まだ彼女が、玖音ではなかった頃。
私は、牢の中でその子と出会った。




