38話 死の迫る渓谷、金の雫
私は玖音を抱えたまま、唇を噛んだ。
腹部から、血が滲んでいる。
治まったはずだった。
けれど、赤は布の上に広がり続けていた。
指で押さえても、血は隙間から溢れてくる。
「玖音……」
返事はない。
身体は冷たい。
けれど、小さく震えていた。
まだ、生きている。
セイメイが何をしたのかは分からない。
ただ、死を少しだけ遠ざけただけ。
私は玖音を抱え直し、セイメイの背を追った。
見知らぬ大地だった。
赤く濁った月。
肺に絡みつく瘴気。
荒れ果てた地面。
底の見えない渓谷。
はるか向こうでは、小山のような獣が歩いていた。
一歩ごとに大地が鳴り、足元の砂が崩れる。
ここは、現世ではない。
考えるまでもなかった。
「……ここは、どこなのですか」
セイメイは振り返らない。
『知る必要はない』
「玖音が、このままでは……」
『ならばこそ歩け』
冷たい声だった。
私は奥歯を噛む。
腕の中で、玖音の呼吸が乱れた。
「はぁ……はぁッ……」
「玖音、しっかりして」
声を掛ける。
けれど、玖音の瞼は開かない。
青い唇から、浅い息だけが漏れていた。
「セイメイ……!」
私は叫んだ。
「少しだけでいい。
玖音を休ませてください」
セイメイは止まらない。
『休めば毒が待ってくれるとでも?
神の次は、毒に祈るか』
それだけだった。
喉が焼けるように渇いていた。
息を吸うたび、濁った空気が肺を刺す。
足が重い。
視界が揺れる。
その時。
水の音が聞こえた。
荒れた渓谷の奥で、月明かりを受けた水が落ちている。
「水……」
私はふらつきながら、そちらへ向かおうとした。
その瞬間。
『飲むな』
セイメイの声が落ちた。
私は足を止める。
『その水は瘴気にやられている』
「……え」
喉が痛い。
身体が水を求めている。
目の前にある。
音まで聞こえる。
「では……この水は……?」
『猛毒だ。死にたければ飲め』
その言葉が、あまりにも冷たかった。
腕の中で、玖音の身体が沈む。
私は慌てて支え直した。
布はさらに赤く濡れていた。
「そもそも……ジゲンは。
彼女は、無事なのですか……」
私は顔を上げる。
『奴は鬼だ。
傷はとうに癒えている』
「狼煙を……狼煙を上げなくては」
『必要ない』
セイメイは滝を見据えたまま言った。
「なぜですか」
返事はない。
次の瞬間。
大地が跳ねた。
立っていられない。
滝の上空から、何かが落ちてきた。
轟音。
岩が砕け、瘴気が渦を巻く。
砂が舞い上がった。
私は玖音を抱えたまま、後ずさる。
「なに……」
続けて、もう一つ。
小さな影が降り立った。
華奢な身体。
額に輝く宝珠。
『――来たか』
セイメイが、ゆっくりと前へ出る。
砂煙が、少しずつ晴れていく。
そこにいたのは、骨を纏った金色の大鹿だった。
深い闇を映す瞳が、静かにこちらを見ている。
美しい。
まるで神の使いのように、神々しかった。
けれど、恐ろしい。
その前に、小さな少女が立っていた。
「……ジゲン」
声が震えた。
ジゲンは私を見た。
「ご無事でなによりです。姫様。」
一瞬だけ、安堵したように見えた。
けれど次に、腕の中の玖音を見た。
その顔から、表情が消える。
「その傷で、歩かせていたのですか」
静かな声だった。
けれど、怒りが滲んでいた。
私は何も言えなかった。
玖音の身体が、また小さく震える。
ジゲンは歩み寄り、玖音の腹部を見る。
赤く濡れた布。
止まらない血。
青い唇。
途切れそうな呼吸。
ジゲンの額の宝珠が、淡く光った。
「急いでください」
ジゲンは言った。
「このままでは、命が尽きます」
胸が潰れた。
私は玖音の手を握り締める。
「玖音……」
返事はない。
金色の大鹿が、静かに首を下げた。
赤い月。
濁った空気。
荒れ果てた大地。
瘴気に沈む渓谷。
その中心で。
玖音の血だけが、まだ温かかった。




