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37話 紫苑の華



玖音の身体が、小さく震えた。


気絶したはずだった。


けれど、浅かった呼吸が、少しずつ落ち着いていく。


閉じられていた瞼が、ゆっくりと開いた。


「……菜垂……」


掠れた声。


私は張り詰めていた息を、ようやく吐き出した。


「玖音……!」


玖音はぼんやりと空を見上げる。


赤い月。


焼け焦げた花畑。


そして――


白い垂布を纏う影。


その姿を見た瞬間、玖音の瞳が揺れた。


「……ここは、どこなのですか」


問いかける声は、弱々しい。


けれど、視線だけはセイメイから離れなかった。


「――……師匠?」


そこで、玖音の言葉が止まった。


何かを言いかけたようにも見えた。


けれど、その先は出てこない。


玖音の肩が、小さく震える。


恐怖なのか。


衰弱のせいなのか。


それとも、別の何かなのか。


私には分からなかった。


セイメイは、静かに告げる。


『暗示をかけたはずだ』


その声に、感情はなかった。


セイメイは焼け跡へ歩み寄る。


黒く焦げた花畑。


その中から、焼け残った紫苑を一輪摘み上げた。


花弁には、亡者の返り血がこびりついている。


赤黒く汚れた紫苑。


セイメイはそれを、玖音へ差し出した。


『この華が分かるか』


低い声だった。


玖音は、紫苑を見つめる。


長い沈黙のあと、静かに首を横へ振った。


「……いいえ」


『そうか』


風が吹いた。


次の瞬間。


ぼっ、と。


セイメイの指先に、青白い火が灯る。


火は紫苑へ燃え移った。


花弁が縮れ、こびりついていた血が、音もなく黒へ変わっていく。


さらに炎は、周囲に焼け残った紫苑へと広がった。


青紫の花々が、次々と黒く崩れていく。


私は、その光景を見つめていた。


以前の私なら、許せなかったかもしれない。


けれど、今は違う。


セイメイが、無意味に花を焼くとは思えなかった。


なら。


これは、何かを確かめるための行為なのだ。


そう思った瞬間だった。


炎を見つめていたセイメイの動きが、わずかに止まる。


白い垂布が、静かに玖音へ向いた。


まるで。


何かが現れるのを、待っていたかのように。


静寂が、焼けた花畑を包む。


玖音が、焦げた紫苑の花弁を拾い上げた。


その指先は震えている。


呼吸も浅い。


立っているだけで限界なのが分かる。


それでも、玖音は花弁を見つめたまま、小さく呟いた。


「私は……

 命を……無駄にはしません」


掠れた声だった。


なのに、その言葉だけが妙に重く響いた。


「民草を燃やすというなら――」


風が吹く。


灰が舞い上がる。


「まずは、

 この身を薪といたしましょう」


私は息を呑んだ。


それは、祈りに近かった。


けれど、玖音の言葉ではない。


そう思った。


玖音自身も、自分が何を口にしているのか分かっていないような顔をしていた。


まるで、どこか遠い場所から流れ込んできた言葉を、無理やり口にしているようだった。


セイメイの気配が、わずかに変わる。


『……正気か』


低い声。


玖音は答えない。


答えられないのだろう。


息は乱れ、唇は青い。


今にも倒れそうだった。


その時。


玖音の手が、無意識に刀へ触れた。


「玖音……?」


本人の意思ではない。


何かに導かれるように、震える指が柄を握る。


そして。


ゆっくりと、刃を抜いた。


「――陽世の術」


抜き放たれた刃が、淡い白金に輝く。


私は目を見開いた。


暖かい。


なのに、恐ろしい。


その光は、闇を祓う灯のようで。


同時に、玖音自身を削って燃えているようにも見えた。


玖音の瞳は虚ろだった。


「――闇夜は、

 誰をも孤独にします」


玖音が呟く。


その声を聞いた瞬間。


胸の奥が、ざわついた。


理由もなく、泣きたくなるような感覚。


「ですから……私は……

 どこまでも傍におります」


白金の光が、静かに揺れる。


「行く末が……

 どのような道を辿ろうと――」


その姿が、一瞬だけ遠く見えた。


目の前にいるのは玖音のはずなのに。


私は、玖音ではない誰かを見ている気がした。


「……灯として、

 傍にありましょう」


その言葉を最後に。


光が消えた。


同時に、玖音の膝が崩れる。


「っ――!」


私は慌てて抱き留めた。


玖音は、瞳も開けられないほど疲弊していた。


全身から汗が噴き出している。


呼吸も荒い。


「はぁ……

 はぁッ……」


肩が小刻みに震えていた。


今にも、意識を失いそうだった。


私は玖音を抱えたまま、唇を噛む。


「……なぜ……?

 なぜ、今の言葉のために力を使ったの?」


玖音の喉が、小さく震える。


「……わかり、

 ません……」


掠れた吐息。


「体が……

 勝手に……」


そこで、言葉が途切れた。


玖音自身も、怯えているように見えた。


『当てられたか』


セイメイが呟いた。


だが、そこまで言って口を閉ざす。


「何に……でしょうか」


私が問う。


白い垂布は、静かに玖音へ向いている。


けれど、やはり私には分からなかった。


セイメイが見ているのは、玖音なのか。


玖音の奥にある何かなのか。


それとも、もっと昔の誰かなのか。


その視線の先だけが、どうしても掴めなかった。


その時。


玖音の腹部から、治まったはずの血が滲み始めた。


「……っ、治したはずでは……!?」


布に赤が広がっていく。


私は慌てて傷口を押さえた。


けれど、血は指の隙間から滲み続ける。


『あれほど無理をすれば、術が解けるのは道理だ』


「治せないのですか」


セイメイは無言で、己の手を見せた。


そこには、力を使い果たした竜門の痕があった。


『治したのではない』


短く、冷たく告げる。


『留めていたにすぎん』


助かった。


そう思ったのに。


また、失いかけている。


私は唇を噛んだ。


「……ジゲンなら、きっと薬草を持っているわ」


顔を上げ、セイメイを見る。


「彼女も、この地にいるのですか?」


『あぁ』


セイメイは短く答えた。


『だが、この場には辿り着けぬだろう』


「なぜですか」


『じきに瘴気が満ちる』


セイメイは、遠くの闇へ視線を向けた。


『死にたくなければ歩け』


「瘴気……?」


『毒だ』


「……!」


その一言で、喉が凍った。


毒。


この空気そのものが、やがて命を奪う。


玖音を抱える腕に、力がこもる。


白い垂布が、闇の奥へ向いた。


セイメイはもう歩き出していた。


私たちを待つ気など、微塵もない。


私は玖音の身体を抱き起こす。


冷たくて、重い。


けれど、失うわけにはいかない。


「玖音……行くよ」


返事はない。


それでも、私は彼女を支えた。


焼けた紫苑の灰が、足元で舞う。


赤い月の下。


私たちは、瘴気の満ちる前に歩き出した。


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