基礎魔導原論 第1章 第2項
第2項 魔力
魔力は始原神から分かちがわれた力の一端である。火が火であるのは、火が持つ魔力が火であるようになっているから火になっているのである。木や紙屑は何もなければ燃えることがないが、他の火にさらされる、熱を持つなどをして、発火をし火となっていく。それは、その他の存在の魔力が、木や紙屑の魔力を変容せしめ、火の魔力と至ったからこそ火になるのである。このように、万物の魔力は相互に影響しあい、その触れ合いによって様々な現象が生み出されている。世界は真理に基づき、すべては自動的に変化をし続けているが、その本質は絶え間ない魔力の変容であり、連綿たる流れのなかにある。それは決して無秩序ではなく。我々がいまだ知られざる法則にそう見えるだけのことであって、いかなるものも一定の法則によっている。
魔力と一言に言っても、一様ではなく、その質に濃淡がある。それこそが人が魔導を使えることの理由でもある。火や水、風といった自然現象、草木や岩といった自然物が持つ魔力は、薄い、低位の魔力といえる。一方人をはじめ、動物や、魔物と呼ばれるあの恐ろしい生き物たちの持つ魔力は濃く、高位の魔力である。魔力は高位から低位に流れる性質を持っており、それは言い換えれば高位の魔力は低位の魔力を変質させれることにもつながり、その過程にこそ魔導の発端があるのである。
太古の記録によれば、人が魔導の本質を叡智神から授かる以前においても、人も魔導のようなものを発露していたのである。今に至っては、おとぎ話のような話であるが、史実として認められうるものので、例えば心優しき剛力の騎士ヒナルグハンや盲目の聖女ケニロー、川渡の奇術師ピニナなど、当時では奇跡の類と思われていたものは、現代においては魔導のそれであり、彼らは先天的か後天的かに自身の魔力をして、現象を導くことができていたのである。
騎士ヒナルグハンの剛力であれば、現代では「強化」の属に分類される魔導の一つとなっている。自身の腕の魔力を変容させ、通常の筋力の在り方を肥大化させ、常人にない剛力を発揮せしめてていると言える。どの程度の剛力を発揮できるかは魔導師の技量次第のところはあるが、駆け出し程度でも常人の倍くらいの剛力を出すことは現代では容易なことである。聖女ケロニーの癒しの奇跡は、今では「治癒」の属に分類される魔導であるし、奇術師ピ二ナの奇術とされたものは「力動」の属に分類される魔導であるといえる。
なぜ魔導の理を知らずして、これらの偉人は魔導を行いせしめたのであろうか。それが魔力の持つもう一つの性質、生きとし生けるものが持つ、意思というものによって操作できるためである。今では、当たり前のことであるが、魔導を行使するためには、意思によって、魔力を方向づけなければならない。この意思の存在こそが、他のものではなく、人が魔導を扱える大きな点である。これらの偉人は、知ると知らずに、偉人たる所以の強き意思により魔力を操り、その偉業を達成せしめるところになったのである。研究が進んだ現代においても、この点はいくらか明らかになっている。例えば幼子において、怪我などをして泣きわめくことがあるが、このとき泣き声にのせた強い意志が怪我に作用しその回復を微々たるものの早めていることがあることが明らかになっている。当然、法則に則らない魔力への干渉は、すべてが良い結果のみが出るわけではなく、望まない結果になることもあり、むしろそういったことの方が多いのである。御伽噺で呪いや神罰などと言われたものの一部は、そういったものの結果でもあることがあるのである。




