別典:神々ついて
始原神 忘却されし創造の祖。
天も地もいまだ定まらぬ太古、無窮の虚空には、ただ一柱の神のみが漂っていた。のちに八柱の子と世界とを生むこの神こそ、あらゆるものに先立つ始原である。一人あることの耐えがたい孤独の中で、この神はみずからの身を九つに裂き、八つの欠片より八柱の子を生み出した。されど、ここで誤ってはならぬ。身を裂いたとて、始原がそれで砕け散り、消え果てたのではない。あらゆるものの源たるこの神は、わが身を分け与えてなお、今もただ一柱として、確かに現存しているのである。
魔力もまた、この神に始まる。神々がそれぞれに世界を形づくっていったとき、その威光が漏れ出で、世にあまねく広まっていったもの──それが魔力である。そして、そのいちばんの始まりこそ、始原がわが身を九つに裂いたその瞬間、断ち口よりあふれ出た力にほかならない。八柱の神々の創造より漏れた威光も、もとをたどれば、この最初のひとしずくに発している。万物に魔力が宿り、世界がそれによって成り立っているのは、ひとえにこの始原の、分かちあいの名残なのである。
この神には、真の名がない。始原であるがゆえに、この神はあらゆるものに名を与えることができた。空に、海に、八柱の子に、名を授けたのもこの神である。されど、おのれより先立つものは何ひとつなく、ゆえにおのれを名づける者もまた、ついに在りえなかった。あらゆるものを名づけながら、ただおのれ一柱のみを名づけえぬ──それが、すべてに先立つ者の負うた、たったひとつの欠落であった。
「忘却されし祖」と呼ばれるのも、ここに理由がある。ひとつには、悠久の時の中で、人がその存在をしだいに忘れ去っていったこと。されどそれ以上に、そもそも言い表すべき名が、初めからなかったがゆえなのである。古今の文献は、この神を実にさまざまな言い回しで書き記してきた。それらが、後の調査によってことごとく同一の存在を指していたと明らかになってなお、誰一人その名を口にすることはできなかった。名がないのだから、当然である。そこで人は、名づけえぬこの神に、せめてもの尊称として「忘却」の二字を捧げた。名を持たぬというただその一事こそが、皮肉にも、この神に与えられた唯一の呼び名となったのである。
名もなき始原は、今もなおどこかに在って、世界を見ているのだろうか。それを確かめた者はない。ただひとつ確かなのは、人がものに名をつけ、その名によって世界を分かち、たがいに語り合うそのたびごとに、人は知らずして、すべての名づけの源たるこの神の御業を、ささやかになぞっているということである。混沌から意味を切り出し、名を与えること──それは、始原がただ一柱、孤独の淵で始めた、最初の創造の身ぶりそのものなのである。
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聖嵐神 シャナル・コーハル・ヴェルフィナ 至天の光輝たる第一の座。天空・嵐・神罰を司る。
始原神がみずからの身を裂いたその瞬間、最も大いなる光の欠片は、ふたつに分かれて生まれ落ちた。一方が光と昼を負う兄、聖嵐神シャナル・コーハル・ヴェルフィナであり、他方が夜と終わりを負う弟、反逆神ディット・グー・ドーズである。双子は本来ひとつの光であり、それゆえ生涯、互いの存在をおのれの半身のごとく感じ続けたという。
弟が始原神に弓引き、千年の闘争を起こしたとき、聖嵐神はみずから神罰の代行者となって戦場の空を駆けた。その声は雷であり、真に怒れば言葉ひとつが落雷となって万夜の一族を灼いた。嵐を呼び、稲妻を放ち、天そのものを武器として、この神は神々の先陣を切った。されど、いかに兄が強大であろうと、弟を滅することはついにできなかった。ひとつの光より分かれた双子は、片方が滅びればもう片方も滅びる定めにあったからである。
ゆえに聖嵐神が選んだのは、殺すことではなく、封じることであった。みずからの光をもって弟を闇界の最下層、光届かぬ混沌の底に縛り、その封印の鍵をおのれの身に刻んだ。封印が聖嵐神にしか成しえず、また聖嵐神が在るかぎり解けぬとされるのは、双子の絆そのものが鎖となっているからである。至天の光輝が、いまも瞬くことなく天に在り続けるのは、神威の誇示のためではない。一瞬でも光が翳れば、弟の封印もまた緩むからである。
この神の戦いは、勝利の物語として語られると同時に、ひとつの悲劇としても伝えられる。半身たる弟を、みずからの手で永遠の闇に縛らねばならなかった兄──その封印は、弟を救えなかった悔いと、世界を守らねばならぬ責とが、分かちがたく溶け合ったものであった。雷冠の民ヴェルフェンの声に神罰の残響が宿り、彼らが常は囁き以下の声しか発さぬのは、この神の、誇りと嘆きとを同時に負い続ける宿命を、いまも受け継いでいるからだと伝えられる。大気を読む彼らの止まり木へ船乗りが巡礼を絶やさぬのも、嵐を統べるこの神への、遠き畏れの名残なのである。
空が荒れ、稲妻が走るたびに、古き民はこの神の戦いの記憶を見たという。嵐とは、ただの天の気まぐれではない。半身を縛り続ける兄神の、けして緩めてはならぬ緊張の現れであり、世界がいまだ平らかであることへの、絶えざる代償なのである。澄み渡った晴天の高さに、人がときに荘厳と寂寥とを同時に覚えるのは、その奥に、ひとり空を見張り続ける者の、孤独な姿を感じ取るからなのかもしれない。
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反逆神 ディット・グー・ドーズ 万夜と終焉の神。聖嵐神と一なる光より裂かれた双子の片割れにして、第二の座。
聖嵐神と同じ光より生まれた反逆神ディット・グー・ドーズが司ったのは、夜と終わりの権能である。されど、心に留めねばならぬ。この権能は、もとより災いの力ではなかった。夜は人に一日の労苦を忘れさせて安らぎを与え、終わりは魂に安寧をもたらし、世に静寂を行き渡らせる。昼を統べ嵐を呼ぶ兄と、夜を統べ静けさを織る弟──このふたつが対となってこそ、世界は穏やかに運行していたのである。終わりとは、本来、すべてを優しく閉じ、休ませるための権能であった。
ゆえに在りし日の反逆神は、世界の守護者であった。行き場を失ってさまよう魂を拾い上げては、安らかな憩いを与え、世に害をなさんとする邪なる存在があれば、終わりの力をもってこれをうち滅ぼした。夜の静寂は、疲れた者の褥であり、迷える魂の港であった。兄の光が世界を明るく照らし出すならば、弟の闇は、世界をそっと覆って癒す手であったのである。
その本質が歪んだのは、驕りゆえであった。すべてを終わらせうる力を握るうちに、この神はいつしか、終わらせる権こそがあらゆる権の上に立つと信じるようになった。生があるなら死を、始まりがあるなら終わりを、そのことごとくを決する者は己であると。安らぎを与えるための終わりは、ねじ曲げられて、ただ終わらせるためだけの終わりへと変じた。魂を休ませた静寂は、生けるものから生気を奪う澱みとなり、優しく閉ざす手は、触れたものを腐らせる手となった。これが、今に言う万夜の魔導の始まりである。
歪みきった反逆神は、ついに父たる始原神に弓引いた。その力に触れたものは在るべき姿を失い、生けるものは終焉に魅入られて万夜の一族へと堕ちた。かつてこの神に救われ、安らぎを与えられたはずの魂すら、ねじ曲げられた眷属へと取り込まれていったという。千年の闘争とは、この歪んだ終焉の力と、世界を保たんとする神々との、長き長き戦いにほかならない。
戦は反逆神の敗北に終わり、双子の兄の手によって混沌の底へと封じられた。されど終焉の神は滅びてはいない。ただ縛められているにすぎぬ。その囁きは、今もなお封印の隙間より漏れ出で、力を求める者、世を儚む者、深き喪失に沈む者の心に、そっと忍び入るという。万夜の魔導が、禁忌というよりむしろ「異端」と呼ばれ、それに触れる一切の記録が一文字たりとも残さず消し去られねばならぬのは、この囁きの恐ろしさゆえである。ひとたびこれに応えれば、混沌の底の手を、みずから世界へと招き入れることになるからである。
この神の物語が真に恐ろしいのは、その囁きが、まったくの偽りではないという一点にある。安らぎ、安寧、静寂──反逆神がかつて司った権能は、今も人の心が最も深く希うものである。終わりを願う心、休らぎを求める心は、誰の胸にもひそむ。だからこそ、堕ちた守護者の囁きは、いまも優しさの残響をまとって迫り、いっそう抗いがたいのである。世界を癒す手が、世界を腐らせる手へと変わり果てるのに、ほんのわずかの驕りで足りた──それこそが、この神が今もって、最も警戒すべき存在であり続けている、何よりの理由なのである。
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叡智神 クロル・ファナ・シーデリ 輝かしき英知の才人たる第三の座。真理・知識を司り、人に魔導と原初の呪文体系を授けた神。
千年の闘争において、人は神々の先兵として戦場に立った。だが聖母神より生み出されたばかりの人は、万夜の一族の前にあまりに脆く、ただ無為にその命を散らすばかりであった。神々の多くがこれを定めとして見過ごす中、ひとり心を痛めたのが叡智神クロル・ファナ・シーデリである。
叡智神は、人が神々に捧げたその健気な献身に深く打たれた。勝てぬと知りながら逃げず、なお神々のために剣を取る姿に、この神は世界の真理の一部を人に分け与えることを決した。すなわち魔導である。あわせて、天稟なき万人にも真理を扱えるよう、原初の呪文体系をも授けた。一語にして多義であり、世の理の一面をまるごと言い当てるあの原初の言葉は、もとはこの神の知の結晶であった。
されど叡智神は知っていた。真理を知る力は、希望であると同時に絶望であり、万民を救う杖であると同時に、世界を滅ぼす剣ともなることを。それでもこの神が人に知を授けたのは、危ういと知りつつ、なお人の問う心を信じたからである。果たして人は、授けられた力におごり、神々の域に達せんとして崩滅の日を招いた。それでもなおこの神が人から知を取り上げなかったのは、知ろうとすることそれ自体を、罪とはしなかったからである。
知った事柄が文字となって全身の肌に刻まれ、けして忘れることのできぬ銘肌の民シーデルンは、この神の写し身である。生まれたときは一字も持たぬ白い肌が、学ぶほどに銘文で満ちてゆき、全身が黒く満ちた日に静かに息を引き取る彼らの一生は、知ることに己を捧げるこの神の在りようそのものである。その肌に残された原初の言葉の断片は、失われた真理への、ほとんど唯一の手がかりであった。機構の言語収集の事業が、彼らの書庫への立ち入りを許されて飛躍したと伝わるのも、ゆえなきことではない。人類の魔導史とは、ひとえに叡智神の投げかけた問いへの、果てなき応答にほかならないのである。
この神を描いた古き図像は、しばしば片手に書を、片手に消えかけた灯を持つ姿で表される。知の灯は、掲げ方を誤れば、掲げた者の手をも焼く。叡智神が人に求めたのは、知を恐れて遠ざけることでも、知に溺れておごることでもなく、知を畏れながらなお問い続けるという、最も難しい中庸であった。崩滅の灰を踏み越えてなお人が真理を探し続けているかぎり、この神が人に賭けたものは、まだ失われてはいないのである。
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聖母神 ラナ・ディル・ジーエーナ 万物の生命の母たる第四の座。人を生み出し、世界の運行を担う命を与えた神。
八柱の子のうち、生命を司ることとなったのが聖母神ラナ・ディル・ジーエーナである。始原神より分かたれた力をもとに世界の骨格が形づくられたのち、そこに息吹を与え、草を芽吹かせ、獣を走らせ、そして人を生み出したのは、この神の手による。人に与えられたのは、ただ生きることのみならず、世界の運行の担い手としての役目であった。のちに人が現界の管理を神々より委ねられたのも、もとはこの母なる神の意であったと伝わる。
千年の闘争において、聖母神は戦う神ではなかった。武器を取らず、ただおのれの生み出した人や生きものが、反逆神の終焉の力の前に次々と命を散らしてゆくのを、見つめ続けねばならなかった。生み出すことを司る神にとって、わが子の死を見届けることほど深き痛みはない。その嘆きは、戦のいかなる傷よりも重かったと神話は伝える。
戦後、荒廃した現界の復興をあえて人の手に託したのも、わが子らがみずからの手で生命を取り戻し、立ち直ることを願ったからだという。生命を漏らしながら生き、けして命を奪えぬ芽吹の民ジーナリは、この神の慈悲を最も色濃く受け継いだ一族であり、人の治水や開墾の及ばぬ死の土地を甦らせたのも彼らであったと伝わる。治癒の魔導がジーナリの体質の模倣から生まれたという説は、すなわち人の癒しの業が、もとはこの神の恩寵に連なることを意味している。
されど、母なる神の領分は、人にとって最も甘く危うい誘惑ともなった。崩滅の日、エルムント王国が手を染めたのは、無き生命を生み、ひとたび失われた生を呼び戻さんとする業──まさにこの神の領域を侵す行いであった。すでにある生命を癒すことは許されても、無き生命を生むことは許されぬ。その一線は、母なる神への敬いそのものである。生命にかかわる魔導が固く禁じられるのは、それを越えることが、わが子を慈しみ続けた母への、最も重き裏切りとなるからにほかならない。
春ごとに芽吹く若草、産声をあげる赤子、巡りくる実りのひとつひとつに、この神の手はいまも触れているという。聖母神が人に望んだのは、みずから神になることではなく、与えられた生をいとおしみ、次の世代へと手渡してゆくことであった。生を生み出す力を求めるよりも、いま在る生を慈しむこと──そこにこそ、母なる神への最もまっとうな報い方があるのだと、緑を置き去りにしながら静かに歩み続ける芽吹の民の姿は、語っているのである。
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律天神 オルダ・ヴェム・カノーレ 天秤と律法の番人たる第五の座。世界を貫く法則を司る神。
世界がただ神々の気まぐれによって動くなら、そこに秩序は生まれぬ。万物が一定の理に従い、同じ因が同じ果を生むこと──その揺るぎなき法則を世界に敷いたのが、律天神オルダ・ヴェム・カノーレである。この神は、たとえ神々であろうとみずからの定めた律から逃れえぬよう、世界の根に天秤を据えた。貴賤も、真偽も、貸し借りも、生死さえも、すべてはこの天秤の上で釣り合わねばならない。神々の世界に秩序があり、八柱がおのおのの理を侵さず保ち続けているのも、この神の律あればこそである。
千年の闘争において、律天神は剣を振るう神ではなく、戦のただ中にあってなお理を保ち続ける番人であった。反逆神の力が世界の理を歪め、腐らせたとき、それを誰よりも憎んだのもこの神であったという。なぜなら終焉の神の業とは、律天神が敷いた釣り合いそのものを破壊する、秩序への根本的な反逆にほかならなかったからである。
魔導に再現性があり、同じ手順を踏めば同じ現象が導かれること、すなわち魔導が魔法や奇跡と峻別され、学問として成立しうることは、ひとえにこの神の律によっている。法則があり、再現性があるからこそ、人は真理を調べ、積み上げ、後世へ受け継ぐことができる。魔導の研究そのものが、この神の律の上に建てられた営みなのである。
約定を交わせばそれが身体に律として刻まれ、嘘をつけば均衡を失って立つことすらできぬ天秤の民カノールは、この神の眷属である。王を持たず、すべてを契約で編む彼らの社会、そして諸国の紛争において最後の仲裁者として選ばれる彼らの法廷は、律を体現する者ならではのものである。彼らの行使する魔導がけして暴発しないのも、律そのものを宿す身であるがゆえである。崩滅ののち、諸国が垣根を越えて機構を立て、魔導に規範と禁忌を定めえたのも、その根底に、この神の律への畏れが息づいていたからにほかならない。
この神には、怒りも慈悲もないと言われる。あるのはただ、釣り合っているか否かの一事のみである。それは一見冷たくも映るが、神々の気まぐれにも、強き者の横暴にも左右されぬ秤があるということは、弱き者にとって何よりの救いでもあった。世に正義という言葉があり、交わした約束に重みがあり、不正がいつかは正されると人が信じうるのは、その底に、この沈黙の天秤が静かに据えられているからなのである。
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堅磐神 ガルド・モーン・ダグレナ 不動の大地の礎たる第六の座。大地・山岳・鍛造を司る神。
堅磐神ガルド・モーン・ダグレナは、八柱のうちで最も寡黙にして、最も忍耐強き神である。その思考は人の十年を一瞬とするほど緩やかに流れ、ひとたび腰を据えれば幾百年も動かぬという。世界の大地と山岳は、この神の不動の体そのものであり、各地の霊峰のいくつかは、太古に座したまま動かなくなったこの神の眷属の姿であるとさえ伝えられる。動かぬこと、変わらぬこと──移ろいやすき世にあって、この神はただ一点、揺るがぬものの象徴である。
千年の闘争において、堅磐神が担ったのは戦うことではなく、鍛えることであった。この神は炉を持たぬ。その掌こそが鍛造の場であり、握り込んだ鉱石は体内の神なる熱によって熔け、幾年もの時をかけて練り上げられた。神々が反逆神とその眷属に振るった神代の武具──双子の兄が弟を封ぜし鎖もまた──ことごとくこの神の掌の内で「育てられた」ものであるという。一打ちに千年をかけるその仕事は、すべてを朽ちさせる終焉の力に対する、大地の不動の答えであった。終わらせんとする神に対し、けして崩れぬものを鍛える神。両者の対峙こそ、闘争の隠れた骨格であったとも言われる。
生きながら肌が岩理を帯び、やがて山と化してゆく黙坐の民ダグレンは、この神の写し身である。一語を発するのに半日を要する彼らの緩慢さも、数十年を一息とする時の流れも、すべてこの神の在りようを映している。彼らが百年に一度だけ掌を開く開掌の日に、諸国の鍛冶師と魔導師が巡礼に集うのは、その掌の内にこそ、堅磐神より受け継がれた太古の鍛造の理が宿るからである。急がず、倦まず、足元を見続けよ──魔導の徒が繰り返し説かれるあの戒めを、最も深く体現しているのは、ほかならぬこの不動の神なのかもしれない。
この神は、おそらく言葉でものを教えはしない。ただ在ることそのものが、教えなのである。慌てず、誇らず、千年をかけて一打ちを重ね、けして仕上げを急がぬ──その姿に、魔導の徒は、近道を求めてやまぬおのれの心の浅さを映して見る。地に足をつけて立つということの重みを、これほど静かに、これほど揺るぎなく示す神は、八柱のうちにほかにいない。山を仰ぐとき人がおのずと襟を正すのは、そこに、この神の不動の忍耐を感じ取るからなのである。
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流転神 セレ・ミウ・ターリエ 廻りゆく潮と刻の紡ぎ手たる第七の座。水・時・流転を司る神。
とどまるものは何ひとつない──それを世界の理として紡いだのが、流転神セレ・ミウ・ターリエである。潮は満ち引き、刻は流れ、生まれたものはやがて還り、還ったものはまた生まれる。この絶え間なき循環こそ、この神の織り機の上で紡がれ続ける糸である。魔力が高位から低位へと流れてやまぬのも、世界そのものが一所にとどまらぬのも、すべてはこの神の息吹の名残であるとされる。
とりわけこの神が司るのは、魂の巡りである。あらゆる魂は、この神の御手のもと、冥界と現界のあいだをめぐりゆく。死とは終わりではなく、織り機にかけられた糸が一度ほどかれ、また新たに織り直されることにすぎぬ。流転神は、その糸の一筋一筋を、慈悲もえこひいきもなく、ただ淡々と紡ぎ続ける。流れること、移ろうこと、それ自体がこの神の在りようであり、ゆえにこの神は、引き止めることも、留めることも、けして良しとはしない。
時を逆しまに流れ、老いて生まれ若くして水へ還る逆刻の民ターリャは、この神の理を最も奇しき形で映した一族である。未来を「思い出し」、過去を少しずつ忘れてゆく彼らの在りようは、時を司る神の不可思議を、そのまま身に負ったものと言えよう。
されど、この神の領分こそ、人が最も触れてはならぬものでもある。魂をとどめ、呼び戻し、移し替えんとすること──それは、この神の織り機に人の指を差し入れる暴挙にほかならない。三大禁忌の筆頭が魂にかかわる魔導であり、たとえいかなる慈悲や大義の名のもとであれ断じて許されぬのは、流転という世界の最も根源の理を、人ごときが乱してよいはずがないからである。死者を惜しむ心は、誰の胸にもある。だが、惜しむあまり糸を手繰り寄せんとすれば、世界を織り上げる流れそのものが、ほつれてしまうのである。
とはいえ、この神は無情の神ではない。流れがあるからこそ、苦しみもまた過ぎ去り、傷もいつかは癒え、世界は同じ淀みにとどまらずにすむ。とどまらぬことは、失うことであると同時に、救われることでもあるのだ。別れの悲しみと、明日への希みとが、じつは同じひとすじの流れの、表と裏にすぎぬということ──それを心から受け容れえたとき、人ははじめて、この神の淡々と織りゆく糸の、底に流れる優しさに触れるのである。
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門守神 ノヴ・ガーレ・シルディン 三界の淡いに立つ黄昏の番人たる第八の座。境界・門・死者の導きを司る神。
千年の闘争が終わり、神々が戦で傷ついた神体を癒さんとしたとき、もとはひとつであった世界は、輝界・現界・闇界の三つに分かたれた。その境にそれぞれ門を置き、三界の関わりを切り離す役を託されたのが、門守神ノヴ・ガーレ・シルディンである。そしてこの神は、いずれの界にも属さず、みずから三界の狭間にとどまることを選んだ。黄昏と夜明けの淡い光の中にのみ輪郭を結ぶこの神は、まさに境界そのものの化身なのである。真昼にも真夜中にも姿を持たず、ただ移り変わりの一瞬にのみ在る──門とは、開くものではなく、隔てつつ繋ぐものであることを、この神の姿は教えている。
門守神のいま一つの務めは、死者を導くことである。流転神の織り機へと還りゆく魂が、迷わず門へ至れるよう、この神は灯をかかげて道を照らす。戦野に、疫病の地に、音もなく現れては骸のかたわらに小さな灯を置いてゆく黄昏の民シルデンは、この神より死者の導きを託された眷属である。影を持たず、その足元に小さな扉を落とす彼らの姿は、狭間に立つ神の写し身にほかならない。
崩滅の日、神々の怒りに灼かれて滅びゆくエルムント王国にあって、最後まで人の魂を見捨てなかったのも、この神であったとひそかに伝えられる。神々が人の傲りを罰したそのときですら、門守神はただ黙して、滅びゆく者たちの魂を、ひとつ、またひとつと門へ導き続けたという。罰する神々のかたわらで、罰せられる者を導く──そのいずれにも与せぬ姿は、狭間に立つこの神ならではのものであった。
人々が辻に、峠に、渡し場に小さな祠を置き、道供えをする習わしは、もとはこの黄昏の番人への、ささやかな感謝の証なのである。旅路の境、生と死の境、その淡いに立つすべての者を、この黄昏の神は、今も変わらず静かに見守っている。
黄昏どきや夜明けの、空がいずれの色とも言いがたく移ろうあの一瞬に、ふと胸を衝かれるような心地を覚えることがある。古き者は、それをこの神が傍らを過ぎてゆく気配だと言った。境とは、ただ隔てるためにのみあるのではない。隔てられたものを、なお見失わぬための灯でもある。あらゆる別れに立ち会いながら、なお灯を絶やさぬこの神の姿に、人は古来、死をいたずらに恐れずにすむための、静かな慰めを見いだしてきたのである。




