基礎魔導原論 第2章 第4項
第4項 原理への理解
前項にて、魔力に意思をのせ、これを制御する技術を述べた。ここに至り、徒はようやく本格的に魔導を行使する入り口に立ったといえる。しかし心せよ、放出と制御の技をいかに磨こうとも、それのみではいまだ魔導師たりえぬ。次に求められるのは、呪文が引き起こさんとする現象そのものの、原理への理解である。
第1章に述べたとおり、呪文とは意思の鋳型であり、魔力に意思をのせて世界に干渉し、呪文に沿った現象を導くものである。しかし、その呪文がいかなる現象を、いかなる理によって引き起こさんとしているのか、それを知らぬ者にとって、呪文はただの音の連なりにすぎず、何ら効果を発揮しないのである。語を諳んじていても、その語の指し示す理を解さねば、結ばれる像は空虚である。さらに恐るべきは、語の意味を誤って解したまま唱える場合である。このとき呪文は発動せぬのではない。誤った像のままに発動し、望まぬ結果を導くのである。制御を修めた徒にとって、これこそが次なる危うさとなる。
例を挙げよう。「熱」にかかわる呪文である。学び始めの徒は、「熱」と聞けば、高温なるもの、熱きものを思い浮かべがちである。しかしこれは誤りである。「熱」とは、そのものが持つ魔力の運動のありように作用する語であり、温度とは、その運動の結果として外に現れた姿にすぎぬ。運動を増せば、ものは文字通り熱くなる。しかし逆に運動を減ずれば、ものは冷たくなっていくのである。すなわち「熱」の一語は、熱することも冷ますことも、ともにその内に含んでいるのである。
この原理を解さぬ徒が「加熱」の呪文を唱えるとどうなるか。運動の増減ではなく、ただただ温度の上がるさまのみを心に描いてしまう。像は一方に偏り、歯止めを失い、過剰に熱してしまうのである。基礎魔導の「加熱」は、本来、対象の温度を望むところに至らしめる、ただそれだけの術である。しかるに、見習いが鍋の水を温めんとして煮えたぎらせ、手にした杯を熱しすぎて火傷を負うのは、毎年春の学園で繰り返される、おなじみの失敗談である。軽き火傷で済めばまだ幸いというもので、像の偏りが甚だしければ、杯もろとも手を焼く大事に至ることもある。逆に、原理を真に解した熟練者は、同じ「加熱」をもって、ものを冷やすことすらできる。夏の日に「加熱」の一語で杯の水を冷やしてみせる師の姿に、初学の徒は目を丸くするものであるが、そこに何の不思議もない。師は「熱」の理を知るがゆえに、運動を減ずる像を結んでいる、ただそれだけのことなのである。
ここに、魔導の修練が呪文の暗唱と魔力の鍛錬のみにては完結せぬ理由がある。第1章第6項に述べたとおり、呪文の優劣は、その語が世の理をいかに言い当てているかにかかっている。ならば、その呪文を使う者もまた、言い当てられた理そのものを知らねばならぬのは、当然の帰結であろう。学園の課程において、徒が修練場のみならず書庫にこもり、自然の理、ものの成り立ち、世界の構造を学ばされるのは、このためである。原理への理解が深まるほどに、結ばれる像は精緻となり、一つの呪文から導きうる現象の幅は広がっていく。同じ呪文を唱えながら、魔導師の間に埋めがたい差が生まれるのは、魔力の多寡よりもむしろ、一語の背後にある理をどこまで深く知るかによるのである。
若き魔導の徒よ、呪文を覚えたその日から、汝の学びの相手は言葉ではなく、世界そのものである。唱える前に、まず問え。この呪文は、世界の何を、いかにして変えんとするのかと。その問いを忘れた行使は、目を閉じて崖際を駆けるに等しいことを、ゆめ忘れてはならない。




