基礎魔導原論 第2章 第3項
第3項 魔力の制御
前項にて、魔力を体外に放出し、拡張する技術を述べた。しかし放出された魔力は、それだけではただ漂う力にすぎない。第1章に述べたとおり、魔力は意思によって方向づけられて初めて現象を導く。すなわち、放出した魔力に意思をのせることで、魔導は発動するのである。放出ができた者が次に修得すべきは、この、魔力に意思をのせて制御する技術である。
ここで初学の徒が肝に銘じねばならぬのは、この段階こそ修練の中で最も危険を伴うということである。すでに呪文を諳んじている徒は、放出が成った喜びのままに、不用意に呪文を唱えたくなるものである。しかし誤った制御のもとで行使された呪文は、像が濁り、魔力が定められた枠を逸れ、暴発する危険性がある。過去においては、まさにこれが多くの悲劇を生んできた。放出をできるようになったばかりの若い魔導士が呪文を不用意に唱えて己と周囲を焼き、あるいは師が実地に呪文を唱えさせながら意思ののせ方を教えようとして、加減を誤った弟子の業火や奔流にともに呑まれる。かような事故は時として村や学び舎ごと失わせる大事に至り、修練の途上で命を落とす者も少なくはなかったのである。制御の修練が確立される以前、魔導師の半数は一人前になる前に世を去った、という古い記録すら残っている。
この流れを変えたのが、王国歴1478年の「サルメアの焼亡」である。南方サルメア学府にて、火属の実地修練中に一人の徒の暴発が隣の徒の魔力を乱し、暴発が暴発を呼ぶ連鎖となって学び舎を呑み、師弟あわせて23名が命を落とした。生き残った教師の一人、イェルダ・ノーチェは、この惨事の因が徒の未熟にも師の不注意にもなく、火を生み出す呪文で制御を教えるという方法そのものにあると見抜いた。生み出す呪文は、失敗すれば必ず過剰を生む。しからば、失敗しても何も生まぬ呪文で教えればよい。ノーチェは効果を打ち消す呪文のみを集めた修練課程を編み、自らの門下に課した。当初これは「臆病者の魔導」と諸学府に嘲られたが、ノーチェの門下からはただの一人の死者も出ぬまま、優れた魔導師が輩出され続けた。10年を経て嘲笑は沈黙に変わり、王国歴1493年、機構はノーチェの課程を正式な標準修練として採用したのである。
この反省から、最近の学園では、「無」を入れた呪文で練習することが多い。例えば、ろうそくに火をともし、それに向かって「無火」という呪文を唱える。成功すれば火が消える、ただそれだけである。あるいは流れる川に向かい「無流」と唱えれば、瞬間、目の前の流れが止まる。これらの呪文の妙は、その効果が現象を「打ち消す」ことにある点である。成功しても生まれるのは静けさのみであり、失敗しても、ろうそくが燃え続け、川が流れ続けるだけのことである。生み出す呪文は失敗すれば過剰を生むが、打ち消す呪文は失敗しても何も生まない。徒はこの安全な枠の内で、火の消える瞬間、流れの止まる瞬間を手応えとして、魔力に意思をのせるとはいかなることかを、身をもって覚えていくのである。
のせることを覚えた次は、どのような状況でも安定して意思をのせられるようになる訓練に移る。呪文の行使に適切な意思がのせられなければ、魔導が発動しないこともあれば、逆に過剰に効果が出てしまうこともある。灯火を消すつもりが部屋中の火を、暖炉の熾火に至るまで消し去ってしまうのは、学園で誰もが一度は通る失敗である。呪文の効果に必要なだけの意思を、過不足なく安定的にのせられねばならない。修練はまず、反復である。同じ呪文を、同じ効果で、百度なり千度なり、違わず発動できるようにする。次に、どんな状況でも発動できるよう訓練をする。例えば、師が不意に指示したそのタイミングで呪文を唱え、正しく効果を出せるか。走り込みなどで体を酷使し、息の上がった状態で呪文を唱えられるか。静かな修練場で成ることが、嵐の中で、恐怖の中で、疲労の中で成るとは限らない。魔導が真に求められる場面とは、えてして後者だからである。
制御とは、魔力を御することであると同時に、おのれを御することである。「無火」の一語を侮らず千度唱えた者こそが、やがて業火をも御するのだということを、忘れてはならない。




