第六話 「零れ人」
そんな馬鹿な、という思考は瞬時に切り替わる。
大人たちが本気で警戒していた。まだ実践に出たことのないセクトでも、場に張り詰めた緊張が手に取るように伝わってくる。
けれど、それでもこの状況はあまりにも不可解だった。
なぜなら、零れ人――ソリトゥードの戦士が倒すべき怪物は、この砂浜という安全地帯に、決して出現しない存在なのだ。
「あれが、本物の……」
セクトは、それを目にするのは初めてだった。
暗い影は日差しを受けて、鈍い反射光を放っている。
しかしそこにあるのは、茶色く濁った泥に塗れた、水泡の人型だった。
ガレーネ島において東の方角には、二首沼と呼ばれる禁則地が存在する。
鬱蒼とした木々に囲まれた場所で、戦士以外は決して立ち入りを許されない魔性の土地だ。
ソリトゥードの民の言い伝えでは、この世界は二種類あるとされる。
自分たちの暮らす〝現世〟と、死んだ者の行きつく〝常世〟。
曰く、零れ人とは常世にて居場所を失い、現世へと零れた彷徨える意識である。
二首沼は、常世に最も近い場所として恐れられていた。
零れ人は大自然を依り代として、人の形を保とうとする。術代と原理は似ていた。されど彼らに理性はなく、現世の人間の肉体を求めて襲ってくる。
いくら新たな肉体を得ようと、己が意識を移すことなど決して叶わないと知らずに――
【……こに……か……】
零れ人の口から漏れ出す響き。そこに伴う意味はない。
言葉にならぬ言葉など、哀れな悲鳴と同じなのだから。
「ウィルクスから槍を持って来い!」
片づけ作業をしていた大人たちは武装していなかった。
予測不能の非常事態に、迅速な対応に迫られた大人たちは後手に回される。
セクトは本物の零れ人を前にして、背筋にうすら寒いものを感じていた。初めて相対する本物の恐怖を前に、心臓がうるさいほどに騒いでいる。
「――セクトッ!」
そのとき、ゼウムが少し離れた位置から合図した。
彼は懸命に左手を伸ばしている。すぐに意味は理解した。セクトは傍らに突き立てていた槍を引き抜くと同時、舞う砂埃とともにゼウムへ放り渡す。
「うし! いっちょ、オレが戦士の手本を見せてやらぁ!」
「おい馬鹿、ゼウム! 単身突っ込むな!」
大人がゼウムの独断に気づき呼び止めるが、一度駆け出した動きは止まらない。
ゆらめく足取りで、着実にウィルクスへ近づく零れ人に、ゼウムは持ち前の健脚を活かして刺突を放った。
怪物の顔面が、パァンと飛び散る。
「どうだ見たか! 戦士ゼウムが、二体目の零れ人を討ち果たしたぞ!」
「油断するな!」
「は? ――おわっと!」
他の戦士の忠告が、ゼウムの余命を引き延ばした。
チチッ、と大気が掠れる。無造作に突き出された、首なしの零れ人の右手には、いつの間にか茶色く濁った長物が握られていた。
零れ人は己が肉体の範疇であれば、自在に操ることができる。
飛び散ったと思われた首は泥の槍に変化していた。それは一定の硬度を誇り、ゼウムの利き腕を引き裂く。左腕の肩口から鮮血が溢れ出した。
「ちくしょう、ふざけやがって!」
ゼウムは額に青筋を走らせ、零れ人に槍の連撃を浴びせる。
副長の父に鍛えられただけあって、ゼウムの身のこなしは、半人前のセクトが惚れ惚れするほど洗練されていた。全身の筋肉がしなやかに躍動し、怒涛の猛追を仕掛ける。
零れ人を倒す手段は、彷徨える意識を明確に拒絶することだ。
それは概念の話であり、物理的な法則でもあった。
戦士として完膚なきまでの敗北を与えることで、彼らの存在は現世の束縛から解放されて常世へと舞い戻る。
ゆえに戦士と呼ばれる者は、揺るぎない強さが求められた。
「……何だ、こいつ」
されど、ゼウムの槍捌きに異変が生じ始める。
零れ人は高速で向かい来るゼウムの刺突を、悉く迎撃していた。理性なき怪物にしては、やけに巧みな動きだ。
ゼウムの力を剛とするなら、零れ人の技は柔。
まるで蛇に絡めとられるように、ゼウムの攻撃は防がれる。
「くそっ、どうなってやがんだ!」
「引け、ゼウム! まだお前の敵う相手じゃない!」
「ざけんな! 敵に背を向けて、戦士を名乗れっかよ!」
周囲の制止を振りきり、ゼウムは武功に焦る。
その先に待つ代償が、非常に大きなものであることを知る由もなく――
零れ人から、鮮烈な突きがゼウムに放たれた。
間隙を縫った完璧な一閃だった。
これは受けきれない。首筋を狙いすました一撃は、確実にゼウムの命を奪う。大人たちの絶叫が、耳の奥にこびりつくほど鳴らされる。
誰もがゼウムの死を疑わなかった。
戦士として戦う以上、そのようなことは珍しくもない。
それでも、ついこの間まで子供だった若者だ。彼がこの世から失われる悲しみは、大いなる海よりも深いものが残ることを、戦士たちは覚悟していただろう。
「――今だ、ゼウム!」
そう、決して諦めなかった一人を除いて。
ゼウムの目前に、一匹の蝶が飛んでいた。
幾層もの樹齢を重ねたかの如く、その両翼に刻まれた木目。事実、木片を媒介として生み出されたセクトの術代は、零れ人の切っ先を全身全霊で受け止めていた。
「セクト――はん! お前は相変わらず、お遊戯頼りだ、なッ!」
振り回された薙ぎ払いが、逆に零れ人の胴体を寸断する。
ゼウムは一挙に怪物との間合いを開いた。
術代が届く距離まで近づいていたセクトの隣に並び立つ。
「けど助かった。礼だけは言っとくぜ」
「ゼウムが無事ならそれで良いよ。でも零れ人って、あんなに強いのか?」
「いや、親父たちの戦いを何度も見たことあるが、さすがにあれは異常だぞ。オレが弱いわけじゃねーからな。そこんとこ誤解すんなよ」
「別にゼウムの強さは疑ってないけど」
二人は会話によって、束の間の安堵を補充する。しかし零れ人は未だ健在だ。
残念ながら今の二人に、怪物を倒せるほどの強さはない。消耗戦を強いられるように、じりじりと後退を余儀なくされた――そのとき。
「我が息子セクト! 戦士ゼウムよ! よくぞ持ち応えてくれた!」
ウィルクスから、全速力で砂浜を疾走する一人の戦士がいた。
当代随一の戦士であり、歴代の族長の中で最強とまで謡われるセクトの父。
「ウォオオオオオオオオオッッッ!」
戦士アングは、勇ましい雄叫びを轟かせた。
零れ人の身体がアングに向けられる。猛進する戦士を対処すべき最優先としたのか。
あるいは、この場で最も強い肉体を持つ男を、依り代にと願ったのかは分からない。
「我、戦士アングの名において告げる!」
頭上に振り上げられた轟槍。
「貴様の存在を断じて許容しない!」
拒絶の宣告とともに、アングの槍は振るわれた。
これを受け流すべく、瞬時に泥槍を構えた零れ人。如何なる剛腕であろうと、全てを捌ききるという自信の現れのようであったが――
「ああ、果てなき世界の自我よ。今ここに零れ落ちた自我を還す」
敵の守りごと砕く、アングの一閃。
まさしくただの水泡と帰ように、泥の怪物は縦に真っ二つに引き裂かれた。
パチン、と割れた泥が爆ぜる。
零れ人は身をもって知ったのだ。
自らを超える戦士に引導を渡されたとき、現世に留まる意味が失われたことを。
【……ち惜し……の島に……辿り……】
名もなき怪物の断末魔は、無常な波風に掻き消されていく。
『戦士アングがやってくれたぞォ!』
戦士たちはアングの勝利を祝福する。
「オレ、ようやくあの人に戦士として認められた……親父にだって、すぐに……」
誰もが童心に返り、偉大なる戦士に羨望の眼差しを向ける最中。
「……この島に、何が起きてるんだ」
セクトは言い知れない不安に、胸が酷くざわついていた。




