第十二話 「夜雨の気配」
陽が落ちて、空に靄のような薄闇が敷かれる。
不安定な山間の天気を示すかの如く、つるし雲が月影の輪郭を滲ませていた。
「――はぁ」
ランプの薄明りが照らす宿の窓辺。
セクトは嘆息気味に、今にも雨の降り出しそうな空を眺める。
雲の切れ具合からして、明朝までには止むかもしれないが、坑道への影響は懸念された。
風穴内部が浸水すれば、怪物退治どころの話ではない。
そもそもセクトとしては、怪物退治にサムエルが乗り気であること自体、少なからず不安の影がつき纏っていた。
戦い自体を恐れているわけではない。
いつ命を落とすかもしれない覚悟は、戦士の端くれとして有しているつもりだ。
されどそれ以上に、敵が故郷ガレーネに潜んでいた双頭の巨人の如く。桁外れの力を持つ本物の怪物の場合、勝てる見込みは限りなく低い。零れ人でさえ、歴戦の戦士が命を落とすかもしれない危険な相手だ。
可能なら誰にも傷ついて欲しくない。
そんな想いがセクトの自我には、人一倍強く反映されていた。
「――セクトにい。寝ないのか?」
背後から呼びかけるフィッダの声。
静かに振り返ると、彼女は窓側のベッドの布団に包まって寝転がっている。部屋の割り当ての都合で、セクトと同室にされたのだ。一階と二階で四部屋の用意があり、下は男二人が二組と、上にセクトたち、それにサムエルが個室を利用している。
普通はフィッダを一人部屋にさせるべきだが、深夜に襲われるとも限らないので、護衛を同室させるのは理に適っていた。
「ああ、ごめん。もう消して良いよ」
「そうするね」
フィッダは枕元のテーブルの油皿に、ふっと息を吹きつけて光源を断った。
灯りが消えた瞬間、シンと静寂が支配する。
実際は少し前から物音も人の声も聞こえていなかった。しかし視覚の遮断を伴うだけで、こうも世界が静かに感じる。ガレーネ島に居た頃は、それが当たり前で気にも留めていなかったが、外海に来てからは周囲を意識することが多くなった。
それは日常的に音が溢れているせいか。
あるいは身近に、心からの寄る辺を定めていないためか。
押し寄せる寂寥は、おそらく不安の裏返し。
己が孤独に身を置く事実を、まざまざと実感させるようだった。
「孤独は全てを許容し、全てを拒絶する……か」
得るほどに失い続ける宿業。義賊として出会った仲間との別れの足音が、次第に近づいて聞こえるようだった。
「セクトにい、誰か来たね」
フィッダの呼びかけに耳を澄ますと、廊下から物音が聞こえた。
どうやらセクトの聞いた足音は、妄想ではなかったらしい。
「……フィッダ。念のため、ベッドの下に隠れておいて」
一気に緊張が張り詰める。
セクトの指示通り、フィッダは素早く身を隠した。
カツ、カツ、と何者かの靴が廊下の床石を叩く。じっと息を殺している雰囲気だ。
セクトは気配を抑えて室内から動向を窺う。いつ扉が破られても対処できる意識を持っておくが、廊下の人物はしばらくその場に留まってから階段を降りて行った。
こちらに危害を加える様子はなさそうだ。
宿屋の主人が、客室を見に来たのだろうか。
何にせよ、セクトは一呼吸つけてフィッダに呼びかけた。
「もう出てきて良いよ」
「まったく、人騒がせね。眠気、飛んじゃうよ」
「あとはボクが注意しておくから、フィッダは寝てて良いよ。たぶん、サムエルさんたちも今の気配は気づいてるだろうし、君を危険な目には合わせないから」
「別に、殺されるとき諦めるよ。そういう気持ちで、出稼ぎしてるね。でもワタシィ、死んだら、故郷の家族大変。それだけ心残りね」
フィッダは淡々と現実的な主張を語る。
子供の身ながら背負った覚悟の強さは、セクトたちにも負けていないようだ。しかしそれが彼女の口から出て来る事実は、あまり認めたいものではなかった。
「自分で言ってて悲しくならない、それ」
「セクトにい、ワタシィ、死んだら悲しむね?」
「ああ。もちろん」
「ワタシィ、他人なのに?」
そのとき、ぽろりとフィッダの漏らした響きには、消え入りそうな儚さが感じられた。
頼りないかもしれないが、セクトは彼女の寄る辺となるように頷く。
「出会って、会話して、同じご飯を食べて。そしたらもう、他人なんかじゃないよ。……たとえボクが孤独でなくてもね」
全てを許容せず、全てを許容する二律背反の宿業。
これを背負うゆえに、フィッダの存在を認めたわけではない。
セクトは人間として不変の在り方が、根底から揺らぐことはないと信じていた。
今ここに存在する自我は、紛れもなくセクトという人間のものなのだから。
「そう、なのか? ――……へへっ、そうなのね」
フィッダは布団に潜り込み、妙に上機嫌でくつくつと笑っていた。
彼女が何を思ったのかはセクトに知る由もないが、やはり子供は子供らしくあるべきだと、独善ながらもたしかな感想を抱いた。
「……あれは?」
そんな折、セクトは改めて窓の外に目を向ける。
宿の前の通りに、松明の灯りが見えた。それをかざしていたのは――
「セルジュさん? じゃあ、さっきのは」
町長の息子セルジュは、さっと宿屋を一望してからその場を立ち去って行った。




