第二話 「灯台下暗し」
「――ダーッハッハッハ!」
酒場中に下品な笑い声が木霊した。
男がテーブル席で両脇に見目麗しい女性をはべらせている。彼だけでなく、他にも数人の男たちが、複数の美女に囲まれて酒を呷っていた。誰もが上機嫌に、宴席の場を楽しんでいる有様は、この港町の人間にとっては地獄絵図だった。
海賊という簒奪者をもてなし、媚びへつらわなければならない住民への責め苦。
彼らの機嫌を損ねれば、瞬く間に刃傷沙汰を起こされる。男たちは拳を握り締めて、見て見ぬふりを貫き、女たちは唇を噛んで笑みを取り繕った。
それが、この世を生きていかなければならない、彼らの宿業であるかのように。
「お注ぎします」
されど今宵、酒を注ぐ女の表情には、どこか晴れやかなものが垣間見える。
「いやー、こんな美女に酌してもらえるなんて俺は幸せ者だぁ。こうなったら朝まで付き合ってもらっちゃおっかなー、なーんつって」
冗談めかしつつ、女性の肩を抱き寄せるサムエル。
彼らの活躍によって港町の悪夢は去った。
海賊たちはお縄につき、倉庫にまとめて放り込まれている。
酒場で開かれている騒ぎは感謝の宴。町の人々はこれを行ったサムエル一行を、存分にもてなしていたのだ。
「悪酔いするなよ、サムエル。お前の酒癖に、一体何人の女が泣かされてきたか」
「おいおい、アンガス君。せっかくの祝いの席に水差さないでくださる? そんなしかめっ面してないで、もっと楽しんだらどうだい」
「ひゅー、ひゅー! ボスってば、モテモテーっ!」
「おう、やってるか、クライヴ。若いんだから、じゃんじゃん飲み食いしろよ」
「た、たまには自分で料理せずに、いっぱい食べられるのも良いもんだな」
「ヒューバート、お前ますます面積が大きくなりやがって。三人いるように見えるわ」
「そりゃ飲み過ぎだ。お前さんも、そろそろ節制を覚えないと、すぐおっ死んじまうぞ」
「何言ってんだ、ウォーレンの爺さん。太く短く生きなきゃあ、男が廃るってもんよ。てことで、明日は酔い覚まし用意といてちょうだいな。ダッハッハ!」
ますます気持ちを大きくさせながら、サムエルは注がれる酒を飲み干していく。
周囲もそれに倣って、住民からのもてなしを受けていたが、ふとしたようにサムエルは周囲を見渡してアンガスに訊ねた。
「んー? そういやセクトの奴、どこ行った?」
「セクトなら夜風に当たってる。まだまともに酒の飲める歳でもないし、私たちの空気についていけないんだろうな」
「ふーん、そうか」
サムエルはジョッキ片手に、眉間にしわを寄せた。
「あいつを拾ってもう三年経つが、なかなか距離が縮まらないな」
「仕方ないさ。セクトは自分の名前以外に話せる過去がない。そのせいで常に自我がふらついているんだ。ドクターが心療を続けてくれてはいるが、それもどの程度効果があるものか」
「ったく、世話の焼ける奴だ。ここは俺が一つ、大人の道を教えてやるとするかねえ」
「純粋な子供に猿の芸を仕込むな、馬鹿野郎」
アンガスに諭されつつ、サムエルはぐいっとジョッキを空にする。
そして酔いの抜けない足取りで、未だ騒がしい酒場を後にした。
篝火の灯りは暗闇の海路を進む船の導となる。
見上げんばかりの灯台から放たれる煌々とした光源。盛んな火花がパチパチと音を立てて、彷徨う者をこの場所に引き寄せていく。
されど光が濃ければ闇は深くなるように、灯台の直下は底知れぬ暗黒に閉ざされていた。
「――遠いな」
石造りの灯台の下、セクトは夜光虫の薄明りを敷いた、凪いだ海原を見つめた。
かつてセクトにとって、海を眺めることは当たり前の日常だった。
広海洋の中心に隔絶された凪の島ガレーネ。そこに暮らす唯一の部族、ソリトゥードの民として生を受けたセクト。いつか外海に旅立つという祖父プンクトとの約束を胸に、一人前の戦士を目指しながら日夜鍛錬に励んでいた。
しかしあるとき島に流れ着いた、一人の少女との出会いにより、セクトの運命は一変する。
紆余曲折の末に、セクトはガレーネ島を去った。
過程はどうあれ親しい仲間や大切な家族たちを置いて、たった独り外海に辿り着いたのだ。
思えばそれは、祖父と約束を交わす前から決まっていた、宿業だったのかもしれない。
ガレーネ島に封印されていた〝孤独〟という異質な力。
この現世において、故郷ガレーネがどのような経緯で、孤独を擁することになったのか。そして在りし日の祖父プンクトは、旅の中でどのようなものと出会い、ソリトゥードの民の真実を知るに至ったのか。
セクトは見識を深めるために、今はサムエル率いる一行に身を置いていた。
サムエルは三年前にセクトを海岸で救った命の恩人で、一言でいえば義賊を自称する変わり者である。旧友のアンガスを筆頭に、男所帯で各地を転々と練り歩き、弱気を助け強気を挫く人助けの旅を行っていた。
ガレーネ島と違い、現世は零れ人以外にも害意が満ちている。
その最たる例が人間同士の争いだった。
ソリトゥードの民は、多少の意見のすれ違いはあれど、全員が手と手を取り合って共同生活を送っていた。しかし外海では土地を巡る紛争や、他人の財産の略奪が平然と行われる。
サムエルとその仲間はそんな日々の中で、義憤に駆られて行動を起こす稀有な存在だ。
セクトは彼らの思想に共感し、微力ながら手伝いを行っている。三年前に比べて、父アングの如く順調に身体も育っていたが、背中の槍は飾り同然だった。
主な戦闘方法は今でも術代に頼っていた。
義賊として戦う相手の大半は、零れ人ではなく人間である。
戦いを重ねて気づいたことだが、己は他人を傷つけるのが苦手らしい。血が流れる度に目を背けてしまい、いつしか術代で敵を無力化することばかりを覚えていた。戦士としては未熟かもしれないが、セクトは人として有るべき道を模索している最中だった。
「ボクは今、前に進めてるのかな」
誰にともない独り言が、夜風に流される。
セクトはサムエルたちに、未だ己の過去を話せないでいた。
表向きは記憶喪失扱いだが、広海洋の中心からやって来たとは、そう簡単に信じてもらえる話ではない。ましてや孤独の封印を守り続けてきた一族の末裔などと、自分でもよく分かっていない説明をしても無暗に混乱させてしまうだけだ。
過去のないセクトを心配して、医師のウォーレンがたまに心のケアを行ってくれるが、特に思い出すことはないと何とか誤魔化している。
けれどそれも、いつまで続くかは分からない。
セクトが何も言わなければ、彼らはずっと一緒に居てくれることは理解している。
ただ――そうもいかない事情が、ここ最近のセクトには付き纏っていた。
「また来たのか」
灯台を支える岬。その周囲に盛り上がった岩礁の波打ち際に、セクトは異変を察する。
【――ここに……在るか……】
水底から響く重たい響き。
ピチャ、ピチャ、と岩礁に張りついた水面。それは寄せる波の飛沫ではなく、全身を水泡の膜で包んだ人型の怪物。
常世より溢れた自我が現世を彷徨い、人を襲う存在――零れ人であった。
「悪いけど、回れ右して帰ってくれないか。さっき海賊と一戦交えたばかりで、ボクの自我もすり減ってるんだ」
【孤独なるを……常世へ……】
意識を持たない零れ人の発する、孤独という名の響き。
それはいわば、果てなき世界の自我が遣わした尖兵の証。孤独の力は地上に混沌を招く。これを防ごうとする、秩序の理とも呼ぶべき大いなる自浄作用だった。
「よく父さんたちが口にしてた、果てなき世界の自我。そんなものが実在するなら、貴方の行いはとても正しいのかもしれない。だけど」
瞼を閉じれば月明りに映された水泡夜の如く、家族の顔が思い浮かんでは弾けていく。
その最奥で、ひときわ光を放つ輝き。外海に独り投げ出されたセクトが、今も絶望に苛まれずにいるきっかけを与えてくれた、ある少女の花のような笑顔。
「ボクはまだ常世には行けない。きっとそこに、彼女はいないから」
この胸に抱く想いがある限り、セクトは零れ人に敗北することは許されなかった。
ゆえに、振りかざした手は宙で弧を描いた。
大自然と調和を行うことで、この世に神秘の御業を顕現させる力を、人は術代と称する。
本来ならば人の血や樹液、さらに動物の皮など。外海において〝顕具〟と呼ぶ起点と、火や水など無機物の媒介を要する。
だが孤独の力を宿したセクトに顕具は不要。媒介さえあれば、そこに自我を分け与えることで、己の分身である蝶の化身を生み出せるのだが――
「――俺の前から、お前を追放する」
ヒュッ、とセクトの真横を一陣の熱風が通り過ぎる。
闇を引き裂く羽ばたきは、セクトの生み出した蝶ではなかった。
そこにあるのは、全身を紅蓮に染め上げた灼熱の鳥。刃の如く両翼を広げ、零れ人の懐に飛び込んでいく。
次の瞬間、ジュッ、と焼けつく音。
水泡で構成された零れ人の胴体を蒸発させながら、火の鳥は胸の中央に風穴を開けた。
零れ人は圧倒的な力によって存在を否定されることで、現世に留まる道理を失う。人を模した形骸は飛沫とともに弾け飛んだ。
「ルクーリ――いや、今のは」
一瞬、セクトは末妹の顔を脳裏に過ぎらせ、夜空を旋回する炎鳥を視線で追う。
月明りに絢爛と火の粉を散りばめて、隼を模した炎の塊はセクトの背後に舞い戻った。
「うーし、ご苦労さん。って、自分の自我を労うってのも、自画自賛だがな」
セクトが振り返ると、そこには右手に短筒を構えたサムエルが佇んでいた。
短筒からは僅かに煙が噴き出している。それはサムエルの顕具だった。彼は内部に仕込んだ発火装置を媒介に、炎を纏う隼を術代として放つことができる。
役目を果たした隼は、糸のようにほどけてサムエルの額に自我の欠片を戻していた。
「一人で外にいると思ったら、零れ人退治とは精が出るな」
「まあ……成り行きで」
「この辺はあんまし目撃情報なかったが、あとで注意喚起しといてやるか。それより戻るぞ、セクト。せっかく町の連中がもてなしてくれてんだから、遠慮せずに食べまくっとけ。クライヴみたく、はしゃいでられるのは若さの特権だぞ。お前も頭空っぽにして今を楽しんどけよ」
「ありがとうございます、サムエルさん。もう少し経ったら戻ります」
セクトは一礼して、再び夜の海に意識を戻した。
「はあ。本当にお前は目を離すと、そうやっていつも独りで」
サムエルは呆れ顔で何か言いたげにしていたが、やれやれと首を横に振ると、そのままこの場を後にする。
彼に気にかけてもらっていることは、セクトも十分に理解していた。
しかしそれ以上に、セクトには後ろめたさがあった。直近の零れ人の活発さを見る限り、いつか必ずサムエルたちに迷惑がかかる。
自分と一緒にいるせいで、仲間たちが傷つく可能性があるのなら。
「……そろそろ潮時かな」
覚悟を決める時期がやって来たのかもしれない。
そして、そんなセクトの後ろ姿を遠巻きに見やる――
「――へへっ。その実力、見せてもらたよ」
怪しい影が、不敵に微笑んでいた。




